2011年12月15日(木)一木権兵衛の墓所を訪問しました。
ここは布師田小学校と溝を隔てた北側の道路です。
このように地元のグループが案内の札をつけています。
案内板を探しながら進みます。
ここにもありました。
この上には野々村家の墓所がありますが、ここを通り過ぎ、なおも山道をたどります。
一木家墓所です。といっても一木姓は一木権兵衛夫妻ともうひとつだけ。あとは横山姓です。
「布師田の未来を考える会」というグループが説明板を設置しています。
それによると、「長宗我部の一領具足の家に生まれた一木権兵衛は、
布師田の権兵衛井流を造ったことを野中兼山に認められ、普請奉行に
抜擢されて堰や用水路・港湾建設に関わり、野中兼山の失脚後も
普請方の専門家として重用されました。延宝7年(1679)室津港築港の
成功を海神に感謝して自ら人柱となることを決意し、切腹して命を絶ち
ました。墓所はこの地にありますが、室津港を見下ろす一木神社に
「室津港開削の恩人」として篤く祀られ、功績は現在まで多くの人々に
称えられています。」津照寺を参照
一木権兵衛夫妻の墓です。
布師田の未来を考える会の説明は続きます。「一木家と横山家の関係(墓所が同じ理由)
江戸時代前期、両家とも土木・かんがい・港湾事業等に力量を発揮して藩政に貢献しました。
一木権兵衛の妻は横山信次の娘で、また一木権兵衛の次男市之助は、横山新兵衛直信として
横山家の養子となって横山家を継いでいて、両家が姻戚関係にあることがわかります。
「覚岸院常誉信士」 前一木権兵衛藤原政利
延宝七巳未年六月十七日 六十三歳
「夏休妙慶」 横山信次女諱福
天和三癸亥三月十二日卒六十六歳
一木権兵衛の妻です。
横山新兵衛直信の墓です。享保元年九月七十九歳
一木権兵衛の次男市之助が横山家の養子になったのです。
横山直信の隣に2つの小さな墓をはさみ
あるのは直信の妻の墓です。
百々氏から嫁いでいます。
2人の子供が早世したのでしょうか。
一木政次の墓です。おそらく権兵衛の長男です。
権兵衛は延宝7年(1679)に63歳で人柱として切腹したのですが
政次はその5年前の延宝2年(1674)に30歳の若さで亡くなっています。
次男の直信は横山家を継いでいますが、一木家はこれで絶えたのでしょう。
説明板によると、「土佐藩御馬廻りの家に生まれ、通称を覚馬といいました。
教授館頭取・郡奉行・大目付等をつとめ、十五代山内豊信(容堂)の側用人となり、
吉田東洋らと幕末藩政の枢要な地位にありました。また、鹿持雅澄門下の国学者
としても知られ、著書に「日本紀歌註」などがあります。」
一木権兵衛の墓は山本泰三著「土佐の墓」に掲載されています。