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土佐神社


土佐神社は延喜式内社 南海道土佐二十一坐の一つです。

2002年11月23日 紅葉を求めて市内を散策していたところ、土佐神社の門前に行き当たりました。
また、2006年1月2日 初詣に行って撮影した写真を追加します。


 高知市一宮(いっく)には高知県ではおそらく一番古い神社があります。
 雄略天皇時代(5世紀後半)に創建されたものだそうです。
都佐坐神社として延喜式神名帳に登録されています。

(2006.1)
門前には「土佐國一ノ宮」という銘板が取り付けられた大きい岩がありました。

(2006.1)
門をくぐるとまっすぐに明るい参道が延びています。


 (2006.1)
寛永八(1631)年、二代藩主山内忠義により再建された楼門ですが、内部には楢磐窓神、豊磐窓神の像がありました。
風雨によりほとんど消えた説明板をなんとか読んでみると、これは昭和47年に砥部焼きの研究所が奉安したもののようです。


 (2006.1)
楼門の表側の額に書かれた文字は私には読むことができませんが、門の裏側に掲げられた額は「神光門」でした。


 町中にある割には結構参道が長くて、車の多い旧国道から入ってくるとほっと気が安まる感じです。


参道には近所の小学校の児童の作品と思われるかわいい絵馬がずらっと並んでいました。


 今日は七五三のお参りにくる人が多いようです。
 8月24,25日の夏祭りは「しなね様」として有名で、県下一円から人が集まります。

(2006.1)
公爵近衛文麿による「土佐一ノ宮」の扁額です。

(2006.1)
 初詣です。


 現在の社殿は元亀元年(1570)に長曽我部元親が再建したものです。
 元親は戦に勝つたびに凱旋の報告にここに参りました。

 そのため社殿の形式は、戦勝祈願の若宮八幡がトンボがこれから飛び立つ
(出陣)という「出蜻蛉式」なのに対して、土佐神社は「入り蜻蛉式」でありトンボが
参道から飛んできて着地した形、つまり尻尾が手前になっていて、
拝殿が手前に長く突き出ています。

 鼓楼、楼門は山内家第二代の忠義が建立、再建したもの。
 また、本殿、幣殿、拝殿は明治37年(1904)に、鼓楼は昭和9年(1934)、
楼門は昭和57年(1982)に国の重要文化財に指定されています。

(2006.1)
山内忠義が建立した鼓楼です。

(2006.1)
軒下の飾りに山内家の家紋である三つ葉柏が見えます。

(2006.1)
本殿左側の境内社にも参詣しました。
ここには事代主神社、西御前社、大国主神社の三社がまとまってありました。

(2006.1)
本殿から右側には庭があり、境内社や謂われのあるものが点在しています。
これは「禊ぎ岩」といって、次の謂われがあります。

「境内西方のしなね川は禊川とも称し、心身を清める禊の神事が行われていました。
この岩は禊神事を行う斎場に古くから祀られていましたが、
平成十一年河川改修工事により、やむなくこの場所にお遷ししました。
祭祀上、貴重な石であり祓所の神として、人々の心身を清める御神徳があります。」

(2006.1)
これは「礫石」といい、次の説明がありました。

「古い言い伝えに土佐大神が土佐にお移りになったとき、御船を先ず
高岡郡浦の内に寄せられて宮を建て加茂の大神として崇めたてまつり
ました。あるとき御神体が現れて、ここは自分の思いと違うといって石を
拾って投げ、その石が止まったところに宮を建てなさいといわれました。
そしてその石は14里を隔てたこの地に止まり、宮を建てたという、
この社地を決定した大切な石で、昔から礫石と呼ばれています。

浦の内と当社の関係はこのようなもので、昔、御神幸が行われたところ
です。ここの地質は蛇紋岩なのに、この礫石は珪石でできていてその
性質は全く異なります。学問上は「転石」というそうで特殊なものです。」

(2006.1)
庭の奥の少し高いところにありました。「神明宮」です。
天照皇大御神、豊受大御神をお祭りしていて家内安全、農業繁栄の御利益があるといわれます。

(2006.1)
「輪抜祓所」大きな杉株の輪切りが鎮座していました。
その中をくぐると、大木の長寿やたくましさを授かるといいます。

(2006.1)
「厳島神社」です。

(2006.1)
奉納された絵馬が保管されている「絵馬殿」です。

(2006.1)
船の絵馬が左向きと右向きの二つかけられていました。
元々浦の内の鳴無神社から来たということですから、海の護りも御利益のひとつなんでしょうね。


土佐神社は前田秀徳著「龍馬からのメッセージ」に掲載されています。

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