長宗我部元親の戦勝祈願の若宮八幡宮
大平氏・本山氏・吉良氏・山田氏らによる岡豊城襲撃から奇跡的に復活した長宗我部元親の父国親は十市氏、池氏を従えるようになっていきました。そして香北町、物部村まで拡大していた山田氏と対決、これを破り、1557年、勢力は中央最大の本山氏と並ぶようになりました。
やがて浦戸湾の制海権をめぐり、長宗我部氏対本山氏の争いが起きました。
「土佐物語」によると、元親は幼時にはおとなしかったので「姫若子」と呼ばれていましたが、22才で長浜城を攻める初陣に立ったそうです。
2000年3月 23日 前から気になっていた像を確認しました。
高知市街から桂浜に行く途中、もうすぐ海岸通りに出るという道路右側の広場に槍を持った武者の像が立っています。
22歳のりりしい初陣像。銅像作家濱口氏のリアルな作品です。
25年間でほぼ四国を統一するまでになった長宗我部元親の迫力が感じられます。
元親は、妻の実家石谷家の関係から織田政権にかなり深く食い込んでいました。
織田信長が珍しく元親の長男に「信」の字を与えて信親としたことからもわかります。
ところが、元親が土佐統一の後、阿波、讃岐と勝ち進み、伊予でもうすぐ四国全体の制覇
というときに、信長の気が変わってしまい、元親征伐の用意を始めました。
その命令を信長が出す前日、明智光秀が本能寺にいた信長を暗殺したのです。
しかし、豊臣秀吉の素早い対応に、四国制覇の夢は打ち砕かれ、土佐一国のみを
安堵されたのでした。以後、秀吉の命により浦戸城を近代的に改修して海防、
海運に役立てると共に、朝鮮征伐に加わるための水軍基地としました。
若宮八幡宮の広い参道
ここに長浜城攻めの陣を敷き、若宮八幡宮に必勝祈願をしました。
それ以来若宮八幡宮は元親の祈願寺となりました。
参道から道路を隔てた境内です。
境内の社務所、社殿です。
文治元(1185)年の創建とされ、応神天皇、神功皇后、宗像三女神が御祭神です。
神田祭として、「どろんこ祭り」が有名です。
![]() 戦勝祈願の出蜻蛉式社殿 手前がトンボの頭部で両側に広がる屋根が翼として見る。 これから戦に向かう様子が表されている。トンボやムカデ は当時「勝ち虫」として縁起のよい虫だった。 |
2003.4.25 先週、境内を散歩されていた島田さんという方にご紹介 いただいた現在の宮司さんのお父様(大宮司様)にお逢い してきました。 もう、90才になられるとのことですが、今でもご自分で薪 を割ると言われるとおり、かくしゃくとしたお元気な姿で応対 いただきました。 長宗我部の元親がその子信親に注いだ愛情の話から秦 神社の神主としての苦労話、あるいは以前お勤めの太宰 府の神社などの話、神社の格式の話、出蜻蛉(でとんぼ)、 入り蜻蛉(いりとんぼ)という社殿の建築様式の話など、 また、学問好きは隔世遺伝するとかで、ご自分は学問はし ないが、父上とご子息は学者タイプだとか、いろんなお話を 楽しませていただきました。 突然の訪問にも関わらず、丁寧に応対いただきありが とうございました。 |