土佐の歴史散歩津野町>千屋家墓所

半山千屋家墓所


2011年5月19日(木) 芸西村の千屋家の一人が庄屋として葉山(半山)にいたと聞き来てみました。


津野町立葉山小学校です。


小学校の脇にはこんな看板が立っています。
昨年芸西村で見たとおり、半山の千屋家から勤王の志士が2人出ていました。

千屋 菊次郎・金策の墓
                  昭和49年5月10日指定 津野町史跡

 葉山小学校裏山に維新の志士千屋兄弟の墓がある。

 兄、菊次郎は安芸郡和食に生まれ、半山郷の庄屋となった父千屋半平と共にこの地に移った。
 武市瑞山の土佐勤王党に加盟し、故郷の指導者として活躍した。のちに脱藩、長州の忠勇隊に加わり、元治元年はまぐり御門の変に参戦して敗れ天王山において自刃した。

 弟金策は京に上って勉学し、郷里に帰って医師を開業したが、かたわら兄と共に国事に奔走し、文久2年、藩主を護衛して江戸に出た五十人組にも参加した。のちに脱藩して中国路に活躍したが、美作の国で盗人と誤認されて乱闘となり心ならずも幕吏その他を殺傷し、自らも割腹して非業の死を遂げた。

               津野町教育委員会 平成22年3月1日設置


案内通り小学校の裏の山に墓所がありました。
ご近所の方が通りかかり、墓への道を教えていただくことができました。


背の高い石塔が2つありました。


千屋孝健の慰霊碑です。

千屋孝健ハ通稱菊次郎又ハ栄年少ニシテ京師ニ遊学ス
○ネテ慷慨国事ヲ憂エ武市瑞山ノ勤王同盟ニ加担シ同
志松山正夫ト共ニ文久三年九月二十二日夜宮野々関門
ヲ脱シ元治元年七月十九日鷹司邸ニ拠り会越ノ兵ト戦
ヒシモ利アラズ天王山ニテ会藩新撰組ノ攻撃ヲ受ケ同
二十一日衆ト共ニ北向禁門ヲ拝シ自刃ス 廿八歳
明治三十一年従四位ヲ贈ラル


千屋孝成の慰霊碑です。

千屋孝成ハ通稱金策幼ニシテ上阪医ヲ学ブ性慷慨勤王ノ
志篤ク勤王同盟ニ加ハリ元治元年五月廿九日遺書シテ脱
藩ス後兄菊次郎ノ遺書ニ接シ感奮国事ニ死セン事ヲ期シ
同志三名ト間道ヨリ京ニ入ラントテ美作土居ノ関門ニ至ル
関吏誤リ賊トナシ遮止セシヲ以テ之ヲ斬リ同志ハ自刃
耦刺シテ死ス孝成ハ関門ヲ突過シ一料亭ニテ絶命ノ詞ヲ
書シ屠腹シ死ス 年廿三歳
明治丗一年 正五位ヲ贈ラル


ふたりの父の千屋半平孝則の墓です。
芸西から半山郷へ移ってきた大庄屋でした。


長男の千屋孝繁の墓です。
次男以下は脱藩しても構わないけど、長男は家を守ることが大事です。

千屋半平の墓は山本泰三著「土佐の墓」に掲載されています。

土佐の歴史散歩津野町>千屋家墓所