幡多荘はもと藤原氏が支配していました。元久3(1206)年に九条氏の所領となり、九条道家の子である実経が一条家を創立し幡多荘を譲り受けました。幡多荘というのは幡多本庄(中村市)、大方庄(大方町)、山田庄(宿毛市)、以南村(土佐清水市)と高岡郡の久礼地方で構成されていました。
南北朝以後はかなり経営に苦しんでいたらしく、一条兼良の時代には周囲の地方豪族が侵略を始めました。
応仁の乱が起こってから、兼良の子教房は奈良に疎開していましたが、幡多荘にやってきて荘園を回復しました。さらに、幡多を対明貿易の中継地として産業貿易の拠点とするようにつとめました。
土佐一条氏略系図 実経・・・兼良---+---冬良------------------房通(養子)-----兼冬----内基----忠香・・・ <京一条> | +---教房---+---房家---+---房冬---+---房基----兼定----内政----政親 <土佐一条> | | | +---政房 +---房通 +---康政 | +---房忠
※教房が幡多荘の現地で治めた最初の代ですが、現在では房家を土佐一条家の初代とする説が圧倒的なようです。
一条教房が四国に渡る時、長宗我部兵部丞秦文兼が神戸まで迎えに行った事や、中村に移るまでの間に岡豊にいたので岡豊が栄えたなどの叙述が「土佐物語」の巻第一にあります。