土佐の歴史散歩土佐市>純信堂

純信堂(市野々)


2003年3月1日 中村、宿毛に向かう途中に立ち寄りました。

”土佐の高知のはりまやばしで、坊さんかんざし買うを見た”のよさこい節で有名な純信お馬の恋物語の純信の生誕地です。


土佐市市野々の信号のある国道交差点近くです。


すぐ近くの橋を渡って進んでいくと山際にお堂が見えます。


地元の人が純信の魂を慰めるために建てたという、小さいがしっかりしたお堂です。


百年祭記念の自然石の石碑とその横には純信の歌碑が建っていました。


 純信は市野々の江渕要作の長男で、幼名は要(かなめ)。
 文政2(1819)年〜明治21(1888)愛媛県美川村で69歳で没。
 9歳の時から京都で仏道の修行をし、高知に帰り五台山竹林寺南の坊の住職となりました。

 安政2年(1855)年5月、洗濯女として出入りしていた五台山麓の鋳掛け屋大野新平の娘お馬が17歳、純信37歳のとき二人は駆け落ちをしました。
 ただし、「ぼんさんかんざし」のお坊さんは、純信の下にいた修行僧の慶全という若者で、純信より先にお馬と知り合い、はりまや橋の小間物屋でお馬のためにかんざしを買ったところ、うわさが立ち、慶全は追放になったといいます。慶全は追放になった後、かんざしを買ったのは自分ではなく、純信だといいふらしたようで、それが現在ちまたに残っている話になっているとききました。

 まもなく讃岐琴平神社の高知屋で捕らえられ、お馬は東の安田に追放、純信は西へ追放となりました。
 しかし、純信の恋の火は消えず、変装してお馬に逢いに来て再び追放されたのがお馬は須崎、純信は藩外追放でした。
 純信は愛媛県川之江で寺子屋の師匠となり、また最後は愛媛県美川村で慶翁徳念和尚として暮らしたようです。
 川之江の寺子屋が評判高く、寺子屋を訪ねた河田小龍が純信からお馬宛の手紙を預かりました。しかし、お馬が須崎で結婚したことを知り、手紙は渡さず、襖の下貼りとなっていたという話もききます。
 なお、お馬さんは東京に出て明治31(1898)年66歳で亡くなったようです。

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