清岡道之助旧邸
国の内外の情勢が切迫する藩政末期、清岡道之助は武市瑞山を首領とする土佐勤王同盟に心を寄せ、共に藩政、国事に奔走した。
2002年3月9日 田野町の史跡を訪れました。
清岡道之助旧邸の門前です。
清岡道之助
小さいときに木に登っていて誤って枝で片目をつぶしたやんちゃぼうず。
独眼龍とも呼ばれたそうです。
清岡家略系図
安政の大獄で謹慎中の山内容堂に代わり参政吉田東洋が藩を任されていました。
文久2年、武市瑞山の指示で頑固な公武合体論者である吉田東洋を勤王党の那須
信吾らが暗殺し、彼らの目標の一藩尊攘に一歩近づきました。
ところが、山内容堂が復権して間もなく京都での政変もあり、公武合体論が勢いを増
し、容堂の片腕であった吉田東洋暗殺への怒りもあり、それまで活躍していた土佐勤王
党は、文久3年、首領武市瑞山をはじめ多数の者が投獄されました。
元治元年、清岡道之助、清岡治之助等土佐七郡の同志の代表(庄屋)が高知に集まり
救出方策を協議したが、意見の一致を見ず、安芸、幡多郡を除く五郡の代表が藩に嘆願を
出したが取り上げられなかった・・・・・。
広い庭に対して質素な家のつくりです。
床の間には「二十三烈士の哀史」として紹介文が掲げられていました。