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野根山街道と能勢家墓所

 能勢達太郎/天保14年(1843)〜元治元年(1864)/は、藩校に入り勉学し、大阪、京都、江戸など各地を遊学しました。
 北添佶磨などとロシアに対する海防を考えるため、北海道や北陸諸国を巡り視察を行いました。これは後に坂本龍馬の計画に影響を与えたといわれます。
 土佐勤王党の獄では長州に逃れ、忠勇隊に加わり禁門の変に参戦しましたが敗れ、天王山で自刃しました。
 父の魯足は奈半利で医者であり、塾も開いていた学者であると「土佐の墓」には書かれています。


2012年3月27日(火)


奈半利の里から野根山街道は東の山に向かいます。


山にさしかかる手前に2つの大きな碑があります。


ひとつは「古五六寺廃跡」と書かれています。
比江、春野、秦泉寺廃寺と共に土佐最古の寺院のひとつとして認められるとのことです。
本来の場所は少し離れた農地の中だそうで、発掘の後埋め戻されているそうです。


もうひとつは野根山街道の碑です。
古代の野根山路が養老弐年より延暦拾五年迄官道として指定され、
中央文化の入口となったと書かれています。


いよいよ山にさしかかるところに案内板があります。


野根山街道のきれいな看板も石の標柱もあります。
持参した資料には能勢家の墓所は正月ヶ谷にあると書かれているので、
近辺を散歩している人や作業をしている人に尋ねましたがだれも知りません。
しかし、少し登ると周囲に墓地がたくさんあり、右側の谷にも墓地がありました。


ハルリンドウがかわいらしく咲いていました。
一度この谷を探して回りましたが、行き当たりません。
町にもどり、お年寄りに尋ねてもわからなかったのですが、
森家に行けばなにか分かると教えていただきました。


森家では歓待を受け、早速役場のK氏に連絡していただき、
もう5時を過ぎていたのに役場からわざわざかけつけて案内していただきました。
この墓所は完全に薮の中に隠れていましたが、役場の方が
薮を少しはぐったら2基の墓石が出てきました。
町の文化財に指定されていて、この奥には約10基の墓石があるそうです。
「土佐の墓」によると、この墓石の言行は歌人であり医者であったそうです。


地元の歴史研究者が、それまで安芸の人と思われていた能勢達太郎が実は奈半利出身で
あったということを、この墓所で確認したのだそうです。
その後京都天王山墓地の達太郎の墓から分葬した墓が建てられ、この薮の中にあるようですが、
シダなどが生い茂り、素手では切り開くことが難しく墓所の中には入れませんでした。

坂本龍馬とともに働いた勤王の志士能勢達太郎が奈半利の出身であったことを証明する、
奈半利の歴史にとっては大切な墓所だと思いますので、土佐の交通王野村茂久馬とともに
地元の方にもっと知ってもらって顕彰したいものです。


帰り道で、月、金星、木星が近くに集まっているのが見えました。

この墓所は、山本泰三著「土佐の墓」その三に掲載されています。

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