2009年12月27日(日)
他の墓の確認に来て、その途中にあるこの墓の主が戊辰戦争に従軍していることを、以前読んだことを思い出し、撮影して来ました。
墓所全景です。「土佐の墓」山本泰三(1987)では野中兼山墓所
登り口となっていますが、今はトンネルになっているので、たぶん
上に代替え地をもらったのでしょう。
下にあったときにはロータリークラブ?の説明板が立っていたよ
うですが、今はありません。
とても変わった大きな太鼓のような墓標です。
「よした加寿万」「同人妻まつ」と彫られています。
吉田数馬は藩校致道館で学び、戊辰東征に従い
新留守居組になりました。明治9年(1876)山内豊範の
海南私塾高知分校が開設、初代校長に任命されました。
後ろ側です。右側の欠けた部分は下に置かれていました。
「明治四十三年八月十二日没 享年六十四」
剥離して落ちた部分です。細かい文字が並んでいます。
右側面にも同じような文字が並んでいます。 数馬の人物像をほうふつとさせるような文なので「土佐の墓」 から引用します。ここには次のようなことが書かれています。 嗚呼人も死すべき時に死せざれば死にまさる恥ありとかや 野夫も本年齢已に六十に達しつくづく往時を回顧すれば所謂 死すべき時もありつれど機を誤りて生きながらへ、永らく海南 学校のお世話致し居りしも、之亦何の貢献する所もなく、遂に 老齢を以て今般御辞退仕る爰に同校出身の諸士は、野夫が 年来の勤労を多とし、金員及銅像等を恵与せられ、実に慚愧 赤面之至りに候。志かれ共又、折角諸士の野夫之老懐を慰せ んとの此の美挙を敢えて御辞退申すも、却って礼にあらざるべ しと仍て其の贈与せられたる銅像は、永く家に蔵し、金員は以 て野夫夫妻の壽碑を作り、藹然たる諸士の芳情を永く子孫に 伝へ度、自ら愚衷を碑面に勒し、之を表する事如此候也。 明治四十年一月 加壽万しるす |
墓所左から全景です。
吉田数馬の墓は山本泰三著「土佐の墓」に掲載されています。