2010年6月3日(木) (EOS使用)
筆山のドライブウェーを少し上がると左手の谷間に高知県企業局
と書かれた小屋があります。ここから上が山内家の南邸や追手邸
などの分家の墓所です。
石段を上がると右に山内豊尹の墓があります。
従三位子爵、山内豊尹(1866〜1912)は豊信(容堂)の子です。
このあたりの多くの墓の戒名には童女とか童子とついています。おそらく小さいときに病気で亡くなった子どもたちなのでしょう。
中には倒れて割れてしまった墓石もあります。
これも童子とついていました。
これより南屋敷墓所の標識が立っていました。
童子や童女の墓石が点在しています。
これはだれだろう。「直亮院殿月相浄圓大居士」
「雲峯院殿徳治大居士」は山内豊著(1802〜1859)、南邸初代です。
墓石の表面が剥落し一部の文字しか読み取ることができません。
平石氏からの側室(後出)により、豊信(容堂)、豊積などを設けました。
童子、童女の間を通り少し上がると追手屋敷墓所の標識が立っていました。
標識のすぐ前方にあった「常○院殿諦観一○大居士」
これも誰かわかりません。
また少し上がると「大恭院殿温良俊輝大居士」、追手屋敷初代
の山内豊榮です。
筆山文化会館前の道路にほど近くにあった、「玉艶院心月掃雲大姉」は
山内豊策の娘ですが三条実萬へ養女に、その後14代豊惇と婚約しまし
たが、成婚前に亡くなりました。
「○○院殿○心天英大居士」はだれでしょう。
うつぶせになって倒れ込んだ墓石。簡単に起こして碑面を読む訳にはいきませんね。
これなら読めます。
「贈従四位 覚道院寛山全量大居士」は山内豊譽(1841〜1867)です。
山内豊著の子で民部、兵庫と称し、土佐藩の家老でした。
谷の一番上に来ました。正五位男爵 山内豊積(1834〜1894)です。
豊著の子で京都警護の役についていました。
山内豊章(1843〜1915)夫婦でしょう。左は山内梅子の墓となっています。
豊章は豊榮の子で、藤並神社や土佐神社で宮司などを務めています。
谷の中央を流れる水路を渡ると女性の墓が多くありました。
本当は橋がかかっているのですが、太い古木が倒れて占領
していましたから水路に飛び降りて対岸にかき上がりました。
「小松氏女歌岡墓」(藤原豊著妾)
「山内家舊側女中民岡」
「山内道墓」(山内豊積妾、久保田重賢二女)
「梅林院寒潭圓月大姉」(平石氏瀬代)
山内豊信(容堂)の母です。
「佐竹若山墓」
「栴檀院是法妙薫大姉」(小原氏之女)
小さな「山内豊樹妾由賀墓」は倒れて仰向けに。
「○祥院夏岳妙艶信女」(新地御屋敷御中老格多尾、佐藤氏女)は逆さまに倒れていましたが立派な墓です。
まだまだ大小たくさんのお墓がありました。
分家墓所を見て、数多い童女、童子の墓に驚きました。このような上流家庭でも当時の医療状況が厳しいものだったと思われます。
そのため、山内家継続を支えていた女性たちの墓が様々に建てられ、こうして残っているのにも驚きました。
どこの藩でも同じでしょうが、支配体制を確実にするための一面を見たような感じでした。
これらの墓所は本家墓所と共に日本の江戸期の文化の確実な証拠であり、今後も保存していくことが必要だと思います。
山内豊譽の墓は山本泰三著「土佐の墓」に掲載されています。
山内豊譽の墓は前田秀徳著「龍馬からのメッセージ」に掲載されています。