2013年4月3日(水)
武市甚七の墓は筆山東北部の山麓と人家の間にぽつんと寂しくありました。
「武市甚七高朋墓」安永五丙申年二月十六日五十五歳で歿。
通称は甚七万里永念といって、高知市廿代町に住んでいました。
彫刻に優れていて、土佐国の左甚五郎と呼ばれ、命により高知城の三の丸欄間を彫りました。
有名なのは八百屋町が花鉾に据える久米仙人を依頼され一年がかりで彫りあげました。
土佐では万治元年(1658)から高見茂兵衛、櫃屋道清、仁尾久太夫らにより
長崎笠鉾だんじりを模した花臺が始まりました。
寺石正路氏は、「久米仙人の像已に成るや意匠巧妙刀法軽快にして
仙人飄逸の気躍々出んとす観る者感嘆以て絶技となす。」と記述しています。
墓石の横には横田早馬撰書による昭和八年三月に建てられた墓碑がありました。
潮江旧清水庵山上より昭和二年十一月同志により此処に改葬したことが書かれていました。
武市甚七の墓は山本泰三著「土佐の墓」に掲載されています。