2011年12月3日(土) 筆山で偶然出会った前田秀徳氏に案内いただき、少し南の高見町から高見山に向かいました。
ここから山に向かいます。筆山トンネル東口南上に上がります。
道は二手に分かれます。右は久米坂で筆山に向かって登っていますが、
私たちは左に進みます。
開けた場所に出たら菅原高視朝臣邸跡の碑がありました。
邸跡は2段に分かれていて上には石碑があります。
その石碑には菅原高視朝臣遺跡と彫られていました。
ここは潮江天満宮が管理していて、説明板も建てられていま
した。
「高視朝臣邸跡
昌泰4年(901)1月25日菅原道真公が太宰府に左遷されると嫡子
右少辨高視朝臣もまた土佐権守として京都を逐われ土佐国
潮江に居住した。
此処にその邸跡があり、古来小判畑と称して口碑に伝えられ
ている。尚現在の高見町の町名は、この遺跡により名付けら
れたと云う。 潮江 天満宮」
下の段には五輪塔のようなものと石像があります。
菅原高視を表した像でしょうか。
下から見ると、しっかりした石垣が積まれていることがわかります。
下からの石段も幅の広い立派な石段です。作られた当時は
麓の船着き場からずっと続いていたのでしょう。
ここからは介良富士に続く連山が見えますが、当時はこの麓までずっと海だったのです。
屋敷を堅牢な石積みをしてこの高さに建造したのは、貞観11年(869)の東北大震災による大津波に
ついての知識があったのだと思います。先人の知恵ですね。
この屋敷にいつからいつまで住んだのかよくわかりませんが、父菅原道真が延喜三年(903)
九州太宰府で亡くなった時に遺品を届けるべく道真の老僕、白太夫松本春彦が大津まで
辿り着いたのですが、長旅の疲れか病気のために亡くなり、代わりの者が届けたといいます。
このあと、上に少し登ったところに宝蔵寺跡がありますが、
その上にある高視の墓所に参りました。
「高視朝臣標」
菅原 高視(すがわら の たかみ、貞観18年(876年) - 延喜13年7月21日(913年8月25日))は、
平安時代前期の官人。右大臣・菅原道真の長男。官位は従五位上・大学頭。
寛平5年(893年)に文章得業生となり、翌年には三河掾に任官。その後大学頭兼右少弁となる。
しかしながら、昌泰の変により父に連座して延喜元年(901年)土佐介に左遷される。
5年後に帰京して大学頭に復して従五位上に叙せられるが、以後は振るわず38歳の若さで病死した。
(Wikipediaより)
菅原高視遺跡は前田秀徳著「龍馬からのメッセージ」に掲載されています。