2011年12月3日 前田秀徳先生に案内いただきました。
筆山の墓参道脇の、質素な崩れかけた墓石でした。
「土佐の墓その二」/山本泰三著に掲載されている墓石の写真
ではまだこんなに風化していないので正四位や真田四郎幸氏と
いう文字が残っていたのでしょう。今は正四位は剥離してしまい
真田四郎幸氏も半分しか残っていません。
相撲の好きな魚屋さんが、目覚めて勤王の志士となり、脱藩して
長州遊撃隊に参加、九門の変で敗れ、自刃したのだそうです。
「龍馬からのメッセージ」/前田秀徳著
後面には、昭和7年12月小川鶴惠建となっています。
「土佐の墓」によると、はじめ与津地清次と名乗り、長州で真田四郎と
変名し、慶應元年33歳で長州で亡くなり、墓も長州にあるようです。
ずいぶん後年になってから、顕彰の意味でここに墓を建てたのでしょうか。
小川佐次郎と妻真田政衛の墓
佐次郎は明治29年に37歳で亡くなっています。
政衛は昭和3年に69歳で亡くなっているということは
慶應元年には5歳ですが、四郎の子なのでしょうか?
また鶴惠さんは政衛さんの遺言を守ったヨメなのでしょうか?
そしてそれ以後は子孫が絶えたのでしょうか?
守る人のいない墓石を見て、いろいろ考えさせられました。
窪田真吉の墓は山本泰三著「土佐の墓」に掲載されています。
窪田真吉の墓は前田秀徳著「龍馬からのメッセージ」に掲載されています。