(弘化4年(1847)〜明治34年(1901))
父元助は足軽でしたが兆民が14歳の時亡くなり、母に育てられながら藩校文武館に入りました。
文武館では萩原三奎、細川潤次郎について洋学を学び、岡本寧浦を師とする奥宮慥斎について陽明学を学びました。
藩から留学を許された長崎ではフランス語を平井義十郎について学ぶとともに坂本龍馬や後藤象二郎、岩崎弥太郎たちと知り合いました。
彼の語学力はすばらしく、岩倉遣欧使節団に参加フランスに行き法律や哲学を学ぶ中でルソーの著書に出会いました。
帰国後しばらく法律の仕事をする合間にルソーの「社会契約論」を「民約論」として翻訳したり、フランス語学校校長などをしましたがすぐにやめ、自由民権運動に取り組むようになりました。
明治23年(1890)第1回衆議院議員選挙に当選するも理想とかけはなれた議会に失望し国会を「無血虫の陳列場」とののしって辞職しました。
以後、筆で政府と渡り合い、東洋自由新聞を創設しましたがわずか40日あまりでつぶされました。
明治33年(1900)のどに痛みを感じ耳鼻咽喉科で喉頭癌で余命1年半あまりと宣告を受け、切開手術を受け「一年有半」「続一年有半」を書き残しました。
2003年1月25日 市内中心部の史跡をいくつか探訪しました。
高知市文化センターかるぽーとから電車通りを越えて
北に進むと、この大きな水門の横に自然石の石碑とステンレス
のポールがあります。
水門のある新堀川の改修で、ポールや碑の位置は少し変わった
かもしれません。
石碑には「中江兆民通り」と書かれています。
ポールにはここから西へ50mのところが中江兆民の誕生地だと
案内しています。この通りの右側が兆民の生まれた部屋町、
左側は牢の町でした。弘瀬健太、平井収二郎、間崎哲馬が切腹
するのを兆民は塀によじ登って見たということです。
また、ジョン万次郎が取り調べを受けるのに宿泊した浦戸町
も近くですし、取り調べをした河田小龍宅も浦戸町です。
さらに、土佐勤王党の首領となった武市瑞山が構えていた道場や
岡本寧浦が多くの弟子に教えていた塾も近くにありました。
中江兆民は幼い時の名は竹馬で、のち篤助となりました。
そして虎馬という弟もいました。ここも既に旧宅はなく、中江
兆民先生誕生地という石碑と東洋のルソーと讃える石碑が
あるのみで、当時の様子を伝えるものはありません。
高知市内は戦災で県立図書館が焼け古い資料を探すのに
困るということを聞きます。ここも戦災にあったのでしょう。
中江兆民誕生地跡は前田秀徳著「龍馬からのメッセージ」に掲載されています。