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日々の高知城

懐徳館、正殿、納戸蔵、天守閣、黒鉄門など

(6月)
自動券売機で400円支払い、出てきた引換券を窓口に出して入場券を受け取ります。


桜の季節の写真が入った入場券です。
天守、懐徳館、東多聞、廊下門は内部でつながっています。

(6月)
ここは天守閣と並んで本丸を構成する建物のひとつの客殿で、重要文化財「懐徳館」です。

(6月)
左手を見ると美しい緑が。でも、右手の正殿に進みます。

(6月)
ここが重要文化財「正殿」の謁見の間です。山内容堂公の書がかかっています。

(6月)
謁見の間にはこの「武者隠」と呼ばれる扉があります。
万一の時、この「武者隠」から武者が飛び出して殿を助けます。

(6月)
縁側からのながめですが、塀の外は高い石垣です。

(6月)
重要文化財「天守東南矢狭間塀」には横長の隙間が作られて下の様子を見張ることができます。

(6月)
客殿の欄間はどこかで見た形ですね。お菓子の「浜幸」の包み紙にあったような。
これは「うちわけ波の欄間」といわれ、土佐の左甚五郎といわれた武市甚七の作です。

(1月)
重要文化財「納戸蔵多聞」にある、武市甚七の作で「慈姑(くわい)に水鳥」といわれる欄間です。
三の丸大書院に二面一対で飾られていたもの。他にも「水に漣痕」も保管されています。

(1月)
納戸多聞には乗り物や藩主の贈答品として使われた尾戸焼きも保管されています。

(6月)
分厚い漆喰の扉が開いている所を過ぎると重要文化財「天守」です。
高知城の天守は望楼型天守で、外観は4重、内部は5階建ての建物です。
2重の入母屋造りの屋根の上に2重櫓の望楼を載せています。

(6月)
天守閣北側にある石落とし口や忍び返しです。

(6月)
格子窓から見る高知市街です。

(6月)
格子窓の下には小さい窓が並んでいます。座って射撃するため低い位置にある鉄砲狭間です。

(6月)
天守閣1階は天井まで届くような江戸時代のジオラマがセットされていました。
高知城は、関ヶ原の戦いの翌年(慶長6年)から、土佐の守を命じられた山内一豊が百々越前の守を普請総奉行としてに築城させ、
2年後(慶長8年)に完成しました。

(6月)
急な階段です。こんな急な階段を鎧を着て上がり下りしていたのでしょうか。
江戸時代は平和な時代だったので、天守閣の中で鎧を着ることはなかったのかもしれませんが。

(6月)
2階にも小さいジオラマが置いてありました。天守閣内の広さではこの大きさがちょうどです。
このジオラマでは、今はない三の丸の政務を司る建物群や二の丸の藩主が生活していた御殿
も再現されています。
高知城は慶長8年(1603)に完成し、治水にも力を入れ城下町も発展、充実してきていました。
しかし、享保12年(1727)に城下町の大火により延焼し、追手門だけ残し、二の丸、三の丸の
大御殿や天守まで焼失してしまいました。藩は財政難が続いていましたが再建の努力を重ね、
20年後の延享4年(1747)には元のように再建することができました。

(6月)
太い柱の継ぎ目ですが、割れないように鉄の枠で締め付けてあります。

(6月)
高知市街を見渡すことができる天守からの眺めです。
本丸を構成する他の建物が見えます。天守の下から東多聞櫓、廊下門櫓、西多聞櫓です。
全て江戸時代のものであり、重要文化財に指定されています。

(6月)
行事などで本丸から藩主が城外に出かけるために南側に黒鉄門があります。

(10月)
重要文化財「黒鉄門」です。全体が黒い塗料で塗られています。

(8月)
門の2階には警戒の兵士がいたのでしょう。
黒鉄門より左;重要文化財「黒鉄門西北矢狭間塀
同右;重要文化財「黒鉄門東南矢狭間塀

(3月)
夕陽に照らされ遠くからでも黒鉄門が際立って見えます。

(4月)
黒鉄門を出ると正殿や天守の南側に出ます。春ならこのように桜の花が咲きます。

(4月)

(3月)
鐘撞堂を左に回ると「武者走り」と呼ばれる狭い通りに出ます。更に角を曲がると詰門脇に出ます。
本丸の中の雨水は東側に排水が出るように石樋があります。

(10月)
更に上を見ながら歩くと石落としや忍び返しなどを間近に見ることができます。

(3月)
天守の北面右から延びている矢狭間塀が重要文化財「天守北西矢狭間塀」です。
「武者走り」はこの下を通り詰門の脇に出ます。
さらに鉄門跡、杉の段、板垣退助像とたどれば追手門広場です。

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