河田小龍略年譜
西暦 | 和暦 | 年齢 | で き ご と |
1824 | 文政7 | 1 | 10月25日高知城下、東浦戸片町水天宮下に、土生玉助維恒、礼子の長男として生まれる 元服の後、祖父川田助右衛門の姓を継ぐ。通称は篤太郎、名は維鶴。 |
1835 | 天保6 | 12 | (坂本龍馬生まれる) |
1836 | 天保7 | 13 | 島本蘭渓について絵を学び、壬生秦渓の号をもらう。 |
1839 | 天保10 | 16 | 岡本寧甫に入門。 |
1846 | 弘化3 | 23 | 吉田東洋に従い京都、大阪に遊学。大阪では書を学び、京都では南画を学ぶ。 さらに、京都で京狩野の永岳山梁の門下に入る。 |
1848 | 嘉永1 | 25 | 狩野永岳に従い京都二条城本丸御殿襖絵の大修理に従事する。 |
1850 | 嘉永3 | 27 | 北山越えで帰国し、蓮池町に住まい、画学塾・墨雲洞を開く。 |
1852 | 嘉永5 | 29 | 室津で捕鯨を見る。天満宮950年祭に弘瀬洞意(絵金)とともに「玉藻の前」を描き分ける。 藩命によりアメリカから帰国した漂流民、中浜万次郎の取り調べに当たり、「漂巽紀略」を表す。 |
1853 | 嘉永6 | 30 | 「漂巽紀略」を藩主に献上する。島村小湾、新宮馬之助が入門。(ペリーが浦賀に入港) |
1854 | 安政1 | 31 | 藩命で図取り役として薩摩の反射炉視察に行く。帰国の日安政の大地震に家を焼かれ、築屋敷に移る。 坂本龍馬が来訪、時勢について語り合う。 |
1855 | 安政2 | 32 | 金刀比羅宮に絵馬「捕鯨図」を奉納。長岡謙吉、近藤長次郎、岡崎参三郎が入門。 |
1857 | 安政4 | 34 | 旧宅浦戸岸町に移る。 |
1860 | 万延1 | 38 | 長女生まれる。(桜田門外の変) |
1861 | 文久1 | 39 | 長男生まれる。(武市半平太が土佐勤王党を結成) |
1864 | 元治1 | 41 | 椙本神社に絵馬「翁図」を奉納。次女生まれる。 |
1868 | 明治1 | 45 | 藩命により土佐藩船南海丸にて長崎へ出張。父壬生玉助が戊辰戦役で陣没。 |
1869 | 明治2 | 46 | 三女生まれる。 |
1871 | 明治4 | 48 | 蓮池町にて画塾を再開。橋本小湖入門。 |
1872 | 明治5 | 49 | 藩札の図案を作成する。四女生まれる。官許を得て近江の政所鉱山採掘を計画する。 |
1874 | 明治7 | 51 | 今井小監入門。一時京都に上る。 |
1875 | 明治9 | 53 | 弘瀬洞意(絵金)没し、「友竹弘瀬翁墓表」を草す。 |
1878 | 明治11 | 55 | 高知市街図、高知県市街図などを作る。 |
1883 | 明治16 | 60 | これまで各地の神社の絵馬を奉納。東京に上る。 |
1884 | 明治17 | 61 | 第二回内国絵画共進会に出品。三条実美邸に招宴される。東京から帰国。 |
1889 | 明治22 | 66 | 京都府知事に招かれ京都府事務取扱雇となり、「疎水図誌」に着手。翌年完成納入。 |
1893 | 明治26 | 70 | 京都に住居をおく。 |
1894 | 明治27 | 71 | 明治天皇御前揮毫「仙鶴図」、皇太子殿下御前揮毫「富岳と龍図」。 |
1898 | 明治31 | 75 | 12月19日胃癌により死去。等持院に葬られる。 |
2006年9月2日 JJJさんのページで見つけたので行ってきました。
3年ぐらい前に碑ができあがったという記事は見たけれど、建立の
現場が他の工事を控えていたので、そのまま石屋さんにお預けと
なっていました。
なんともあっさりしたもので、この一枚の石板で
ことは終わっている。ジョン万次郎や坂本龍馬に
関係しているだけでなく、京都にも絵師として
招かれているのに、その割に簡単な紹介で
終わっていますね。しかし、市民の一団体が
建てたものらしいので、これで精一杯というと
ころでしょうか。これだけの立派な功績を残し
ている人について、市民団体が顕彰・寄付す
るのも美談としてはいいですが、観光客を呼
ぶためには、高知市も高知県も協力、率先
して仕事をしてもらいたいものです。
側面は像と書の作者名が彫られているだけです。
塑像:西本忠男、 書:千谷清郷です。
すぐ隣には水天宮様が祭られていました。
向こうに見える交差点ははりまや橋交差点です。