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開成館跡と憲政記念館


2008年1月7日
 今朝の高知新聞を読んでいると「新聞を読んで」というコーナーに県立歴史民俗資料館館長の宅間一之氏が、「歴史という大きな遺産」というタイトルで寄稿していました。
 その書き出しに、「昨年末、高知市九反田の開成館跡を経済産業省が近代化産業遺産群として認定しようとしたが、高知市が辞退したという記事があった(12月1日付け高知新聞朝刊)。」と書かれていました。私は高知新聞をとっていますが、その記事を見逃していました。高知市は「跡地には碑以外何も残っていない。見に来た人をがっかりさせてはいけない」と辞退したそうです。何もなくしてしまったのはだれなのか。氏が紹介しているように、「幕末土佐藩が困難をのりこえて建てた金字塔というべきものであり、その跡もまさしく輝かしい土佐の歴史の集積地」と評価したのは高知市教育委員会自身であったはずです。氏はさらに、「辞退は歴史という大きな遺産の存在を忘れている。史跡には過去の人々の生活や活動の痕跡を示す空間的広がりがあり、歴史を実感させ、未来へのカギもある。過去と未来のかけはしを断ち切ってはいけない。」と批判しています。大いに賛成です。

2005年11月7日
 数日前にTVで、開成館跡に説明板が整い公園が完成したというローカルニュースが流れました。
 今日は会議が早く終わり時間ができたので立ち寄ってみました。
 説明板ができたのは以前に指摘した、「昔の石碑だけでは今の人達はそれを簡単に読みとることができない」ということに応えていただいたものと思うことができます。少しでもよくなり嬉しいです。


新しい遊具やベンチが設置されていました。


記念館跡はすっかり更地となり、4基の説明板が並んでいました。


東側から見たところです。手前の碑は以前は公園の西南側の入口に立っていた「西郷木戸板垣三傑会合の地」を示すものです。


2005年6月27日 再び訪れてみました。


公園入口には「5月31日から10月7日まで工事中」の看板が立っていました。


児童公園の遊具が撤去され、きれいな公衆トイレが道路脇にできていました。
が、既にその真新しい屋根には子ども達がのせたのか、石ころがたくさん乗っていました。
また、後ろには以前にはなかった大きなマンションが建っていて、あれほど大きく
見えていた「憲政之祖国」碑がなんとも小さく感じられるようになってしまいました。


憲政記念館の建っていた場所は跡形もなく空き地になり、一面に草で覆われていました。
工事期間は10月までとなっています。このあとどんな公園になるのか楽しみです。


 2003.12.20 その後高知市からは何の発表もありません。どうなっているかと公園に行ってみました。
 
 窓などの建具は取り外され、もうすぐ解体か?    公園の北側半分は機械が入って何かの工事が
 今日は工事が休みのようで、だれもいませんでした。


 2003.8.26高知市は文化財保護審議会を開き、開成館跡にいて文化財(史跡)指定の諮問を行いました。
 内容は東九反田公園を開成館跡として文化財(史跡)の指定をするべきかどうかというものです。
 この日には結論が出ず保護審議会で審議の結果、調査を行い、その後、答申をすることになったようです。


 2003.7.4 付けの高知新聞によると、高知市議会経済文教委員会では保存の誓願を不採択としました。
 これで、憲政記念館は取り壊され、高知から「憲政記念館」は消えてしまうことになりました。
 高知市教育長は市の文化財保護審議会が審議しこの土地が史跡指定をされれば、それにふさわしい歴史公園として整備したいとしています。しかし、それについては案はまだなく、古い建物を管理するのは金がかかるからとにかく早く無くしてしまえということのようです。


 2003.6.7付けの高知新聞が「憲政記念館活用案保存する会が提言」という見出しで「保存する会」が6日高知市議会や同教育委員会を訪れ提案書を手渡したことを報じています。小原高知市議会議長は「常任委員会で十分論議する」、森山高知市教育長は「土地と建物は区別するべき、利用されない建物の維持は税金の無駄遣い、市議会とも相談する」ということです。
 高知市は建物を取り壊してなくしてしまうことしか頭にないのでしょうか。利用されなければ利用されるように努力をしたのでしょうか。また、取り壊すとすればその後をどうしたらいいのか案があるのでしょうか。


 2003.5.10付けの高知新聞が「保存する会」が視察−活用法を話し合い−というタイトルで、憲政記念館を9日「保存する会」19人が視察を兼ねて意見交換したことを伝えました。その中で「案内板なども含め自由民権の聖地としての位置づけをまずはっきりさせる」「自由民権記念館の別館として活用する」などの意見が出たことを紹介しています。これらの意見はまとめられ近く高知市に提出されます。


 2003.4.20付け高知新聞社会面2に、「憲政記念館解体待った」という記事が掲載されました。
 「利用がないのに維持費ばかりがかさむ」というのが解体の理由らしく、3月の市議会で解体予算が決定されたという。これに対して元高知女子大学長の池川順子さんを会長に「憲政記念館を保存する会」が発足し、市に再考を促すそうです。
 これから散策してまわろうとしていた矢先にこの記事はほんとうに驚き、あわてて行ってきました。
 記念館自体は文化財に指定されていないということですが、観光収入を頼みとする高知市は解体予算を決める前にすることがあるでしょうが!


2003年4月26日 初めて訪れました。

 
 ここは「東九反田公園」というらしいのですが、公園名を探してもわかりませんでした。
 昭和3年11月に高知市が建てた石柱が公園の西南角の入り口脇にぽつんと立っていました。
 「開成館址」「西郷木戸板垣三傑会合の地」と刻まれています。


 公園北の入り口近くに立つ昭和17年2月に建てられた碑です。
「維新の元勲板垣退助先生征韓論に敗れ冠を掛けて郷に退き
同志と共に立志社を創す」、「世人土佐を憲政の祖国と做す」、
「此の地後藤象二郎先生が開国の主唱者吉田東洋先生の遺策を
紹き開成館を建設セル所」、「明治四年板垣先生が西郷・大久保・
木戸の三傑と廃藩置県御親告献上等新政府強化の長策を凝議せし
記念の殿堂なり」などとあります。
 しかし、この石碑だけでは現在の観光客は読みとることは困難です。
 ここに人が尋ねて来ないのは、現在の人に適した案内板も建てない、要するに「ほったらかし」の結果だと思いますが・・・。

 
 これは昭和17年に板垣の業績を顕彰しようと建てられた「憲政館」が老朽化し、昭和41年に高知市が新築した「憲政記念館」だそうです。
 これにも何の案内もなく、ただ「憲政記念館」の看板だけが虚しくかかっています。


憲政之祖国」碑は近所の子ども達の格好の遊び場となっていました。
立派な碑が立っているのになんとも窮屈な場所にしてしまったものです。
この大切な場所がこんな扱いで、碑が泣いているようです。


 記念館南側から西方を見たら、トップワン四国とアサヒ日航ロイヤルホテルが背景に入っていました。
 ここは旧跡巡りの観光地として、はりまや橋から近くて、とてもいい場所です。
 明治の専制政治時代に「基本的人権」、「民主主義」を求めた自由民権運動の顕彰地です。どうしてもっとPRしないのでしょう。


記念館建物東側です。
古い門柱が立っていましたが説明がないので何かわかりません。


「憲政の祖国」碑と向き合っている記念館

 ここにはやはり元々あった開成門と吉田東洋や後藤象二郎に関する展示、そして立志社、憲政館、憲政記念館と続く板垣退助や植木枝盛を代表とする自由民権運動への顕彰の心が表現され、自由民権記念館とは異なる、此の地で当時への想いを馳せることのできる施設が欲しいですねえ。観光客にはもとより、これからの地元青少年に夢を与えるような顕彰のしかたを考えてもらいたいもの。単なる児童公園にしておくのはもったいない。

開成館跡は前田秀徳著「龍馬からのメッセージ」に掲載されています。

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