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中村城跡(幡多郷土資料館)

 昭和48年に幡多市町村圏事業として、為松公園(一条時代の山城ニノ丸)に建設された幡多広域市町村圏事務組合立「幡多郷土資料館」です。
 幡多地域の自然、歴史、芸術、文化等の郷土の財産の数多くを保管、展示しています。
 建物は安土桃山時代の初期の城郭である犬山城をモデルにしています。


2003年3月1日

 昨年9月に中村を訪れたときにはここは屋根の修理中で12月まで閉館ということでした。
 今回はアーケード街の方から城山に上がろうと来たら登り口で工事中通行止め。
 まただめかと思いましたが地図をよく見ていると反対側(百笑口)からも上がれるようです。
 人に聞きながら百笑口をやっと見つけ上がりました。


 建物の修理は終わったようで開館していました。
 ただし、事務室には休日の日だけ来るというおじさんが番をしていて「わしは歴史の専門的なことは一切知らんき、質問してもいかんぜよ」とか言って笑顔で入場券を売ってくれました。


 館内は6層になっていて、1階は自然・科学系資料の展示です。
 2階は歴史資料、3、4階は考古学資料、5階は民俗資料、6階が天守閣で展望台となっていました。


この地域に生息するというヤイロチョウの剥製がありました。


同じくクマの剥製です。


 目的の一条関係の展示はこのブースと年表だけでした。
 ブース内の右側は一条房家の肖像画、左は菩提寺の籐林寺に伝わる「寒山拾得」


 ここが力を入れているのは考古学資料だろうと思われます。
 古墳から出土したものがたくさん並べられていました。
 説明によると、縄文遺跡は狩猟、漁労、採集依存の生活に適した四万十川上流の山岳部や足摺半島の海岸部に多い。
 弥生遺跡は稲作に適した四万十川下流や中筋川流域に多く、山岳部には人が住まなくなる。
 古墳時代も農業が盛んで生活圏は弥生時代と変わっておらず、身分階級の差が極端になり権力者は死亡すると大きな塚を築いた。


 5階の民俗資料では西土佐村津野川の間崎家からの寄贈品が目につきました。
 これは鎖帷子で、布の内側には網の目状の鎖が入っています。


 「てかせあしかせ」とは言いますが、・・・


 立派な天秤ですね。


 6階は天守です。今日は天気が悪いのですが、中村市街を見渡すことができました。

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