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間崎家墓所

 間崎哲馬(滄浪)
 嘉永2(1849)年16歳で江戸に出て安積艮斎に学ぶ。また吉田東洋の少林塾にも学び、須崎や郡の藩吏、文武下役等を歴任したが役人の職になじめず自ら失職。
 文久元(1861)年再び江戸に上り、安積の塾にもどり同門の幕臣山岡鉄太郎と親交、武市瑞山と意気投合して土佐勤王党に参加した。
 2年12月在京の勤王党幹部平井収二郎や弘瀬健太と勤王運動に適合する藩政改革を計画し、藩主の祖父山内豊資に宛てた中川宮朝彦親王の手書を得て帰国、改革に着手しようとしたが、佐幕派に忌まれ、前藩主山内容堂の怒りにふれ、土佐に護送されて切腹させられた。


2003年3月2日 江の村を訪れました。


 中村の四万十川から宿毛方面に4Kmほど走ると「江の村」の標識があり、そこを左折し南進していると自動車道にさしかかります。
 この下付近に車を置いてビニルハウスのある手前左の山に入ります。
 私はこの下をずっと向こうに走ってしまって、集落があるところで道を聞きました。
 農家の人のいい年輩の方が「わしが案内しちゃろ」と遠慮する私に構わず軽トラックに乗ってこの橋まで先導してくれました。
 それだけで結構ですと言ったけど、「寺はわかるろうけんど、墓まで案内しちゃろ」と先を歩き出しました。


 人家の庭に入るような感じで申し訳ない気持ちですが、案内もあり上にお堂が見えますので安心でした。


 檀家も少なくなり、今は守るべき和尚さんもいない長法寺。


 本来の墓は高知市久万にありますが、分骨してこの故郷の人々で顕彰しています。


 上の碑の横には絶命詞が刻まれています。


 小さな集会所が建てられていましたが、開けていただきました。
 その中には中岡慎太郎、吉村虎太郎に挟まれて滄浪の肖像画がかかっていました。
 また、さらに右側には宿毛高校の初代校長だった間崎霞氏ほかの写真もありました。


 そこから一段上に上がり横に少し行くと間崎家歴代の墓所でした。
 またさらに一段上には分家の墓所がありました。


 下を見下ろすと新旧の時代が感じられる風景でした。
 車を置いた場所にもどり、案内していただいた桑原さんにお礼を言って、ちょうど車の中にあったミカンなどを受け取っていただきました。
 見ず知らずの私を親切に案内していただいてたいへん感謝しています。


 車を停めた場所のすぐ近くに神社がありましたのでついでに上がってみました。


「五社宮」というらしいですが、玉に乗る狛犬さんもかわいいです。
宿毛中村自動車道を背景にパチリ。


杉木立の中を進みます。足下は柔らかいコケが生えています。


ずいぶん古くなった社殿の左に有名な数社のミニチュアがあり、遠方まで出かけられない人はここでお参りするようです。
社殿の内部には男御輿、女御輿と思われる一対の御神輿が保管されていました。不破八幡宮の行事が思い出されます。
この境内の中には保育園だったらしい遊具のある建物もあり、子ども達でにぎやかだった過去が想像されました。
地域の人たちのおかげで境内の掃除は行き届いていますが、古くなった建物はおそらく立て替えはもうできないでしょう。
なんだかとても寂しい気持ちになってここを去りました。

間崎道琢の墓は山本泰三著「土佐の墓」に掲載されています。

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