2004年1月17日 元親公の像を見たり桂浜近辺を探索した後、十市方面に車を走らせました。
北代健助(堅勝)
明治維新のあと堺の治安維持にあたっていたとき、フランス人発砲事件(堺事件)が起こり、妙国寺で9番目に切腹。
*身いのちは かくなるものと うち捨てて とどめほしきは 名のみなりけり
右手の山中に祠があると聞き上がろうとしましたが、夕闇迫りどうも気が進まなくてここでお参りしました。
お墓は堺市の宝珠院に他の烈士とともにあるそうです。
農道からの入り口に立っている碑
近づいてみるとこのように彫られていました。「堅助」です。
少し中に入ると低い石垣の上に邸跡の標柱が立っていました。
ここは「健助」です。
まったく関係ないと思いますが、北代健助邸跡に入る少し西にこんな神社がありました。
金色の文字で「女躰神社」いったいどういう神様でしょう。
北代健助墓及び邸跡は山本泰三著「土佐の墓」に掲載されています。