土佐の歴史散歩大月町>山内隼人・采女墓・雨森九太夫墓

山内隼人・采女墓、雨森九太夫墓


2013年2月13日(水) 柏島に来ています。


旧柏島小学校跡に入ると敷地の左外側に一段高い小道があります。
これは島の上にある灯台への道だそうです。


校舎の辺りで車を置いて歩いて上に登り始めると、敷石が現れます。


暫く歩いて、ほとんど急な直登道なので疲れていやになった頃、突然説明看板が現れました。


宝篋印塔がありました。山内隼人の墓です。

山内一豊の甥である可氏(よしうじ)は山内の姓を許され家老となり初代宿毛領主となりました。
山内隼人氏綱は可氏の次男で、慶長十九年(1615)、1000石の柏島守護となり17年間在住しました。
(看板は寛永十六年(1639)になっていますが、パンフレットを引用しました。)
また、「土佐の墓」では人質として江戸へいき、翌年江戸在住のまま柏島守護に任じられ、本藩中老挌となった。
江戸在住二十七年で帰国し柏島に在住し五十才で病死した。とあります。


今でもなんとか菩提寺の「禅昌寺」の文字が見えます。


すぐ傍で、采女(うねめ)の墓だと思われますが、すっかりヤブの下敷きになっていました。

「土佐の墓」によると、「隼人の長男であるが、7才で父と死別し家督を継いだが18歳の時に
長文の遺書を書いて自刃した。その遺書の中に伊賀家の処置を呪詛する箇所があったので
死後も罪名を除かれず、墓に縄をかけて焼香も許されなかったといわれる。」とあります。

上の記事とあわせると、父隼人が33歳のときに柏島に来てから結婚したのでしょうね。
そうすると43歳のときの子ですね。家督を継いだ幼子に伊賀家は何をしたのでしょうか。
自刃の理由は何だったのでしょうか。この薮を見ると未だに許してもらってないみたいですねー。


歩いて下りていると薮の向こうに墓所がみえました。覗くと雨森九太夫源氏康墓です。

寛永十五年(1638)二月三日 行年七十五。「土佐の墓」によると、石田三成の家来であったが、
関ヶ原後山内一豊に仕え土佐に入国しました。その後、弟の山内康豊に抜擢され六百石を受け
鉄砲隊を預けられていたそうです。


そして島原の役に出陣の折に負傷、島原から土佐に向かった
船中で重体となり柏島が見えると同時に息をひきとった。
遺体は柏島に葬られたが、墓石は後に子孫の氏久が建立した。
ということです。


そばにあった昭大心妙寂信女は妻か娘でしょうか?

山内隼人・采女の墓、雨森九太夫の墓は山本泰三著「土佐の墓」に掲載されています。

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