2006年5月24日
高知県文化財ハンドブックを買いました。索引を見ると、国宝は建造物としては豊楽寺薬師堂、そして工芸品として金銅荘還頭大刀拵大刀身のふたつしかありません。 そのうちのひとつの豊楽寺薬師堂を訪れたのでした。
西寺内の集落の入り口から国道と別れ、わずかに集落に入るとまっすぐ集落を貫く道に対して左の山の方に道が分かれています。
山の方に入り道なりに進んで行くとやがて豊楽寺登り口という表示があり、歩道が上に上がっている場所に出ます。
ここには車を置く場所もなく、ホントに下から徒歩で上がる人の道であることがわかります。車はもう少し進めていくと逆方向に上がる道が左手にありますから、そこを左折して上がると間もなく広い駐車場に出ます。
駐車場の上は豊楽寺の本坊、庫裡などとなっていて、国宝薬師堂は駐車場より一段下の段になっていました。
また、駐車場を奥まで進むと若一王子宮があります。
薬師堂が見えました。
階段のたもとにある「国宝薬師奉賛会」の碑です。
創立趣意として以下のように書かれていました。
「柴折薬師」の名で知られる大豊町の大田山大願院豊楽寺は、聖武天皇の勅願所として、 神亀元年(734)行基菩薩草創と伝えられ、本堂の薬師堂は仁平元年(1151)に創建され現 存する四国最古の建造物であり、本県では唯一の国宝建造物にて平安末期の優雅な姿を 今に伝えております。私たちはこの文化財を守り本堂を取り巻く諸施設を整備充実すると共 にかつて土讃線に臨時列車を運行するまでに盛大であった「薬師祭」を復活して、日本三薬 師の一つであり、四国の中央に位置する薬師堂の存在を全国に顕彰し、大豊町はもとより 本県の発展に寄与する為、全国に呼びかけて国宝薬師堂奉賛会を設立いたした次第であ ります。 |
薬師堂の横側です。屋根の角の持ち上がりの優美な曲線が感じられます。
正面には山の下から上がってきた参道の階段がありました。
鐘撞き堂です。
境内の隅まで下がって見ると、平安時代の屋根を支える
多数の柱や板壁、そして屋根の優美さが少し見えてきます。
山内家からの寄進の印が見えます。
薬師堂の裏に回ると一段上から屋根を見ることができました。
こけら葺きの細かい線が滑らかな曲線を描いてたいへん美しい。
こけら葺きは、5cm×30cm程度の木片の集合体です。
気の遠くなるような数と精密な作業が必要です。
国宝 豊楽寺薬師堂 略縁起 一、開創 神亀元年(奈良期)・・・724聖武天皇の勅願所として名僧行基創立したという 天皇の信任厚かった行基が勅命を仰いで薬師勅請の悲願を抱き諸国行脚の 途上夢に霊感を受けここを聖地に選び数多くの仏弟子を率いて参籠、一刀三 礼にて薬師外、諸仏像を彫刻、一堂を建立し南海の祈願大道場とした。 一、名称 大田山大願院豊楽寺(ぶらくじ) 薬師本願経説の中「資求豊足身心安楽」 の仏意に因んで天皇より「豊楽寺」の称号を賜う。 一、三薬師 豊楽寺(柴折薬師) 愛知県鳳来寺(峯薬師) 福島県常福寺(嶽薬師) 一、建物 豊楽寺本堂(国宝薬師堂)は四国最古の建造物で単層入母屋造、こけら葺 きで建物全体にどっしりとした落ち着きを与えており、まさに鳳凰の飛翔せる形 に以て古雅優美その洗練された美しさは奈良・京都にもひけをとらない、特に 内陣の須弥壇の細工が見事で内々陣から垂木の出た形は珍しく建築史のうえ でも貴重なものとされている。 又、天井板に残る槍、鉋の跡など、平安時代の藤原式古法そのままで時代の 特色をあらわし専門家の来訪が多く四国の法隆寺と言われている。 (後略) |
境内入り口に戻り、上にあがります。
豊楽寺の大師堂や坊がこちらにあります。
「瑠璃光殿」と書かれています。
大師堂です。
吉野川を挟んだ対岸には梶ヶ森が見えていました。