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平知盛・経盛・小松少将有盛・二位若姫の墓


2007年1月15日(月)
 未だに全く訪問の報告ができていなかった越知町を取材してきました。
 実は越知町は何度も訪れ、横倉山や黒森山に登ったりしたことはありましたが、歴史的な興味を抱いて訪れたことはありませんでした。
 今回は歴史の好きな友人も同行して、先ずは資料を得に越知町役場から始めました。
 越知町の横倉山は、安徳天皇が崩御なされた地として宮内庁から参考地として5ヶ所指定されているうちでも可能性の高い方です。


 越知町役場で横倉山の地図などの資料をいただきました。

 次に役場で紹介していただいた横倉宮の宮司さん宅を訪れ、越知の織田盛雄さんの著書「安徳天皇御潜幸と越知の歩み」についてお伺いしました。


友人が知人から借りていた本

 宮司さんには、著者の織田盛雄さんは既に亡くなられたということ、この本の内容は知らないがご家族の方が持っておられるのではと教えて頂きました。また、「越知平家会」の会長さんの織田義幸さんを紹介していただきました。
 義幸さんは元は越知町で石油店や金物店を経営しておられて、今はたばこ屋のご隠居さんのようですが、尋ねるといくつもの資料を前に穏やかに泉が湧くようにお話をしていただきました。
 「越知平家会」は越知町の平家の末裔を中心に、また、それ以外の賛同者を含めて結成し、先祖を顕彰し、関係のある墓所等を整備しています。
 平成12年には自分たちで全国から募金を募り、一部は町の補助を受けて、看板を作り横倉山の参拝道を整備して準備し、全国からのお客さんを集め、「安徳天皇800年祭」を開催したそうです。
 とりあえず、今日は平知盛、小松少将、二位若姫の墓を尋ねます。適当な地図がなかったので、義幸さんには一生懸命地図を書いて説明していただきました。いろんなお話、そして資料をいただき、ありがとうございました。


 川の上に張り出したバス停待合所「楠神」


バス停の左側に松山方面に向いて立っている看板
ここから坂を上ると3つの集落がある。
最初の集落にも織田さんという方がいて史跡を守っておられます。
二つ目の集落に上がる手前のカーブが広くなっていて、車を止める
ことができます。そこから歩いて横に移動します。


集落の間を通り過ぎるとちょっと寂しい竹林を進みますが、
100mぐらいで目的の平知盛の墓に着きます。


小さな谷を渡ると左手に石碑の建っている墓所が見えてきます。


 先祖代々言い伝えられてお祀りを続けてきた墓所に、
昭和9年3月に織田一族が建てたもののようです。


真ん中の一段高いお墓が知盛のでしょう。
幼い安徳天皇を護り、阿波の田口氏に案内され、
険しい山脈を越え、この横倉山まで来てやっと
一息ついたのでしょう。


すぐ隣の墓地にも石積みの墓らしいものがあります。
時代がもう少し新しいものかもしれません。


墓所の右上にある平神社です。
長い年月が経ち大きくなった樹木の根で
石段が壊れています。


 安徳天皇をお護りして、この地までご苦労様でしたとお参りしてきました。

 安徳天皇は高倉天皇の御長子で御名を言仁親王と申され、御母君は平清盛の娘、建礼門院徳子である。
 治承二年(1178)皇太子となられ、同年四月二十二日即位されたが、時あたかも源平の戦いが続発し世をあげて戦乱の時代であった。
 寿永三年(1184)正月、平氏は摂津(兵庫県)一ノ谷城を築き十万の兵と船数百艘をもって備え、天皇は福原宮におられた。同年二月、源範頼、義経は東西より大挙してこれを攻め、義経は鵯越より背後を襲い火を放ったため城中は乱れ、平通盛、敦盛、和章当の諸将は戦死し、平宗盛は急遽天皇を奉じて屋島に逃れた。
 文治元年(1185)二月、義経は再び精兵をもって八島を襲い火を放って攻めたところ、平氏の軍は奮わず海に逃れた。義経の軍は益々意気盛んであった。この頃、源範頼は大群を率いて豊後(大分県)におり平氏は進むことができず、船を廻して屋島の壇の浦に船五百余艘をもって天皇を奉じていた。同年三月、義経の船七百余艘が来襲し大いに戦ったが平氏に利なく、天皇の御身が危ういことを平氏の豪族田口成良が知り、一千騎を率いて屋島壇ノ浦に赴き、平知盛をはじめ平氏の諸将と謀り、自ら源氏に降参する風を装い源氏を欺き、天皇の御身代わりを教え天皇をはじめ平家一門海に身投げすると見せかけ敵兵の危険から逃れた。
 田口成良は阿波(徳島県)山城谷の居城へ御供し、二ヶ月間御潜在せられたが源氏の追補が厳しくて長く御潜在できず、祖谷を経て土佐の国へと向かい、教経の一隊は安芸郡馬路村魚梁瀬に入り、他は天皇を奉じて香北町韮生御在所を経、吉野川沿いに四国山地を西へ向かい土佐郡大川村稲叢山、本川村越裏門、吾川郡池川町椿山、吾川村奥名野川、高岡郡仁淀村高瀬・別枝都へと道なき峻険をよじ登り、葛をかけて崖を伝い、橋を架けて谷を渡り、また岩角笹にとりつくなど深山幽谷の地に潜み、言語に絶する苦難の旅を続けられ、安らぎの日は一日たりともないありさまであったが仁淀村別枝都では土地の豪族、西森甚助献身的奉仕により御安堵の日々を送られた。しかし大変不便な土地で主将知盛、西森甚助が等が合い謀り適地探索の結果、横倉山は山深く鳥獣よく棲み山腹は農耕に適し、仁淀川には魚族が多く棲息し食糧の自給も確認され、加えて峻険なる山容を利用すれば源氏追撃の対処も容易であること等が判明し、直ちに横倉山を最適地に決め、横倉山修験道場の先達別府真義坊親秀、清泉坊親康父子の協力を得て、文治三年(1187)八月に行宮の御造営が成り、天皇は知盛外八十余名の随臣武将と共に横倉山行宮に御遷幸なされ、此処を永住の地と定められた。(横倉宮由緒書きより)


民家のあるところまで引き返し、下を見ると石柱が見えます。
小松少将有盛卿の墓です。


墓碑も作られていました。
平知盛に従っていた武将で、小田氏の先祖と書かれています。
石柱は小田氏一族が昭和46年に建てたものです。


小道を挟んですぐ上に高市神社があり、小松少将の
御霊が祀られています。


車を止めた場所に戻ってきました。
その山中に何か白い標柱が見えます。


近づいてみると、安徳天皇従臣 平経盛之墓
とあります。


草の下をよく見ると石が積まれていることがわかります。
また、周囲に石垣が積み上げられて墓地を形成していた
だろうと思われる跡がありました。
急傾斜地なので自然災害で崩壊してしまったのでしょう。


車に乗りさらに1kmぐらい上に上がって行くと、
忽然と3つ目の集落が現れました。


 山裾をくねって流れる仁淀川をはるかに見下ろす、
 平家の落人部落と言っていいでしょう。
 旧鏡村の平家の滝、平家平、稲叢山、木の根三里と足跡を
残して、ここ横倉山に最後の郷を築いた平家の家臣たちは、
一部はこの周辺にずっと生活していたのですね。


この集落のすぐ手前には、幼い安徳天皇を抱いて
瀬戸内海に入水したといわれている二位若姫の墓が
あり、集落の人により手厚く祀られています。


二位若姫を祀る仁井田五所神社がすぐ近くにありました。
平知盛を含め、こうした平家の家臣を祀った社が横倉山全体では83社あるそうです。


山の陽は暮れるのが早くて、もう薄暗くなってしまいました。
帰りに無事に探訪できたお礼を言おうと、再び会長さんの店に寄りました。
すると、平家会の事務局の方がちょうど見えていて、できたばかりの会報をいただきました。
年3回会報を出しているそうですし、まだまだこれから教えていただかないといけないので、
私も会員の末席に加えていただきました。
写真は、高知市に住む人形作家浜田辰位さんから平家会に譲られた、
「石菖物語」を題材にした美しい和紙人形です。
「石菖物語」は、越知町出身の詩人吉本青司氏の詩集「登攀」に収められた
平家伝説を題材として劇化したもので、800年祭の折りに劇団かかし座によって
上演されました。
今回の横倉山訪問はこれで終わりですが、何人もの人にお会いして
取材したことはめったにないし、800年の間脈々と先祖を祀って
いる家があることを知り、私にとって感慨深い一日となりました。

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