TopPage黒潮町>尊良親王行在所跡など

尊良親王行在所跡など



 くろしお鉄道「王迎え駅」前の国道脇に説明板と石碑が立つ。

 元弘二年(123)3月北条氏の専横により、後醍醐天皇の第一皇子一の宮尊良親王は土佐の国に遠流の身となられ、若宮は佐々木判官時信らに警護され、「一の宮はたゆとう波にこがれ行く身を浮舟に任せつつ土佐の畑へ赴かせ給」(太平記巻四)同月下旬この浜に御上陸なされた。時に奥湊川の領主大平弾正一族がお迎え申し上げ程なく馳せ参じた有井庄の庄司有井三郎左衛門尉豊高らに警護され、山路踏み分け今に残る「弾正横通り」を踏破して弾正の館にお着きになった。以来若宮は北条方の監視きびしい中を「王野山」に「米原の里」にと移り変わる行在所で京の都を恋いつつ、二年近い配所の日々をお過ごしになられたのである。


「尊良親王後上陸地」の碑


赤いカンナの花が咲いていた。


くろしお鉄道有井川駅から5kmほど北に入った米原地域を進んで行くと、右手に石碑と説明板
らしきものが見える。


近づいてみるとやはり「尊良親王御宮跡」の標柱が見える。


昭和57年に大方町教育委員会により建てられた説明板。


そこから少し上ると広場の中に自然石の碑がある。


尊良親王御宮跡の碑。裏には尊良親王の「我が庵は土佐の山風
さゆる夜に軒洩る月も影こほるなり」(新葉和歌集)の歌が彫られている。


当時は昼なお暗い山深い所だったのだろうが、今は美しい棚田になっている。


まだ8月だというのに、既にここではアキアカネが真っ赤に染まっている。

TopPage黒潮町>尊良親王行在所跡など