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有井庄司墓所

 一説によると、後醍醐天皇とその長男であった尊良親王、尊澄親王は、鎌倉幕府倒幕計画が未然に発覚し、京都を逃れますが、後醍醐天皇と尊澄親王は笠置で、尊良親王は河内で捕らえられ、1332年後醍醐天皇は隠岐、尊良親王は土佐、尊澄親王は讃岐に流されました。
 尊良親王は、土佐に流された後、四国から九州に渡って、1333年、肥前の江串三郎入道らの味方を頼りに挙兵し、大宰府を経て鎌倉幕府滅亡後の京都に帰還しました。

 この土佐に流されていた間のことが「太平記」に記されているようです。
 土佐での警護役が有井庄司だったのです。京都においてきた愛妻を呼びたいとの尊良親王の願いをきき、親王の部下に迎えに行かせますが、来る途中に難破し淡路に漂着し、鎌倉幕府が倒れ尊良親王が京都に帰還したのちに探し出し感動的な再会を果たしたとか。
 さらに土佐にいる間、敵方が迫ったので山奥にかくまったが、そこに夜の間に食料を運ぶのが有井庄司の娘で、朝になると人目につくので鶏を抱いて行かせた。ところがある日のこと、まだ帰り着かないのに鶏が鳴いて朝になってしまったので、見つかってはいけないと娘は山中で自害してしまった


2010年8月9日 幡多地域の取材中です。ここは黒潮町有井川です。


有井川駅の北方約200mのT字路まで進み右に曲がると「有井庄司」の扁額がかかった鳥居が立っています。


石段の途中に、昭和五十年に建てられた「高知県史跡有井庄司墓」という石碑があります。
高知県史跡としては昭和三年に指定されているようです。


石段の上に見えてくるのはたくさんの五輪塔です。


中央が有井庄司(有井三郎左右衛門豊高)の墓です。


他の五輪塔は、鎌倉幕府滅亡後に京都に帰還した尊良親王が、有井庄司の訃報に際し
八反帆の官船に満載して送ったといわれる供養塔です。


敵方に知られてはならないと自害した有井庄司の娘千代の墓が最近作られたようですね。


黒潮町が建てた立派な説明板もありました。

有井庄司墓所は山本泰三著「土佐の墓」に掲載されています。

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