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森新太郎の邸跡、墓


2013年3月14日(木)


大きくて立派な「森先生之碑」が立っていました。


後側に回るとぎっしりと文字で埋め尽くされていました。


現在は民間人が居住している邸跡に残されている森新太郎家塾跡碑です。


墓所には数代にわたる墓石が並んでいました。


一番奥にある背の高い墓石が森新太郎でした。
明治四十二年(1909)十一月三十日、八十一歳で歿。


墓石の周囲には碑文がぎっしりと刻み込まれていました。

「君諱為政通称助太郎後改新太郎高知県香美郡新宮村人家世郷士父喜右衛門
以家貧務耕糘君幼好文武業既長就良師於府城数年業成帰家近村子弟即其家
側起講武場乞教者数十人会米艦来浦賀我藩為修辺備以君為海防小頭兼督文
武業当此時幕府政衰尊王攘夷論作君與武市瑞山等糾合同志謀推山内侯勤王
而藩論多是佐幕事不容易行阪本龍馬勧脱藩不従既而藩論決於勤王文久二年
君扈侯上京十月三条姉小路二卿奉攘夷勅旨東下君為護衛至江戸先是勅使登
城及中門下輿歩行将軍坐殿待之至此二卿不下輿将軍降階出迎之皇威振蓋始
於此当時護衛尤致力云是時龍馬脱藩有江戸一夜来告久坂玄瑞等計襲英国公
使館君謂果然横浜英艦必起砲火焚焼江戸勅使在彼不宜使有此事乃與同志謀
急申疾伝毛利侯制止玄瑞等因得無又明年扈侯帰藩則藩論一変賜瑞山等死同
盟士多処斬而君不少挫数與同志共訪板垣退助謀事而藩論卒定乎勤王明治元
年王師東下藩軍進撃奥羽賊君従転戦各処有功一柳之戦負重創血流被面猶能
苦闘殺敵賊平以軍功陞挌加秩為第一大隊士官未幾辞職帰郷郷人慕風化徳仰
如父母十年之乱君諭県人使勿與乱乱乎谷干城自熊本帰君説之籍其力説学校
於四所又與郷人謀起嶺南舎建香長学校蓋高知県教育之盛君與有力云四十二
年十一月三十日病終于家距生文政十二年十一月得年八十一予與君同郷交尤
深郷人為君謀建碑嘱文於予乃叙其梗概銘曰

労大不録 有功不言 白衣奉公 終于華門
香美之郡 新宮之村 遺愛長存 世垚不諼

大正二年七月

正二位勲一等伯爵 土方久元撰
正二位勲一等伯爵 田中光顕書」


「森新太郎妻道墓」です。
明治十六年(1883)三月二十七日、四十六歳で歿。


「森新太郎五歳瀧墓」です。
明治三十六年(1903)七月十八日、六十歳で歿。


両親の墓です。
「森喜右衛門墓」明治元年七月五日、七十一歳で歿。
「覚雪妙意信女」嘉永四年十二月十八日、四十一歳で歿。

森新太郎邸跡は前田秀徳著「龍馬からのメッセージ」に掲載されています。
森新太郎の墓は山本泰三著「土佐の墓」に掲載されています。

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