土佐の歴史散歩香南市>安岡覚之助・嘉助墓所

安岡覚之助・嘉助墓所


2013年3月6日(水) (このページは安岡家住宅<重要文化財>ホームページを参考にしました。)


四坊公民館から県道を南に渡るとすぐに墓地がありました。安岡某が沢山並んでいます。
ここか、と覚之助、嘉助を探しましたが、ありません。


もう少し南に入るとまた、お墓がたくさん並んでいる場所がありました。
これも安岡某です。中に入り一基ずつ名前を確認しました。


安岡覚之助正義の墓石です。平が入っています。
墓石の右側 「為小軍監 慶応四戊辰年」(1868) 
左側 「八月二十五日於若松城戦没 時年三十又四」
安岡文輔正理(お西)の長男。砲術に優れていました。
土佐勤王党の血盟同志で投獄され終身禁固となりましたが、
戊辰の役で小軍監として活躍。若松城攻撃で戦死しました。
この墓所は右手にある墓は本家筋ですが、覚之助は本家へ
養子に行ったので右手にあるのだそうです。


弟の安岡嘉助正定の墓石です。こちらも平が入っています。
平が入っているのはこの兄弟2人だけですが、父の文輔の
思いがこもっているのではないかと思えるそうです。

右側には「文久四甲子年(1864)二月十三日 於西京忠死 年二十九」
左側には「ふたたびと来るべき世ならぬ我身をも捨てるは君の御為なりけり」
と刻まれています。
安岡文輔の次男。土佐勤王党に参加していたのですが、
名簿からは削除されています。
那須信吾、大石団蔵とともに吉田東洋を暗殺しました。
直後脱藩して天誅組に参加しましたが、
大和で破れ処刑されました。


安岡覚兵衛正元とその妻です。本家の覚兵衛が分家し、お下家を立てました。


本家の廣助正雄が覚兵衛の跡継ぎとして婿入りしました。
「天保十二年三月十三日卒 享年六十有一」
廣助は譲受郷士で、射場をつくり弓を練習したそうです。


28才で廣助の跡を継ぎ、弓の得意だった源右衛門正方と妻です。


文輔妻の墓 慶応四年歿
文助の墓はここには無く、高知市にあるそうです。
文輔は廣助の次男、源右衛門の弟です。お西の祖であり、覚之助・嘉助兄弟の父です。
幼くしてお下の家督を継いだ甥の恒之進の後見役だったようです。


10才で源右衛門の跡を継ぎ、28才で歿した恒之進です。
「文久二年八月七日 享年二拾八歳卒」
藩主山内豊範に随行した大阪での病死でした。
覚之助・嘉助とは従兄弟同士でした。


土佐勤王党血盟同志となった覚馬は源右衛門の三男です。右に妻の墓も見えます。
「慶応三年丙寅十一月十三日 享年二十有五歳」


恒之進の娘房には本家から覚之助の子寅兵衛正風(乕次郎)が婿入りしたのですが離別し、
別役又彦が婿入りし、お下家を継ぎました。詳細は安岡家住宅<重要文化財>ホームページへ

安岡覚之助・嘉助の墓は山本泰三著「土佐の墓」に掲載されています。

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