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殖田神社


2013年2月26日訪れました。殖田神社は延喜式内社 南海道土佐二十一坐のひとつです。


新改から久礼田に向かう県道の途中にあります。
鳥居の元には狛犬とともに、「延喜式社殖田神社」の石碑も
建っていました。
ここは素晴らしく参道が長くて、この一の鳥居から、
二の鳥居が見えていますが、社殿はまだ見えません。


狛犬さん、「あ」


狛犬さん「うん」


二の鳥居です。参道のすぐ側に民家が建っています。はるか向こうに三の鳥居が見えています。


三の鳥居が近付いてきました。


3の鳥居ですが、ここで、あっと驚きました。
まったく予期していなかった灯籠の列がずらっと並んでいます。


壮観です。灯りがついたところを見てみたいものです。


四の鳥居です。


手水舎の建物は新しいですが、元禄五年の水盤がありました。


相撲場も寄進されていました。奉納相撲が催されるのでしょうか。


向拝、拝殿とも最近新築復元されたそうです。江戸時代後期まではこけら葺だったそうです。

殖田神社の由来
社格 延喜式内社
祭神 阿遅鉏高日子根命
鎮座地 南国市植田字東野1267
 殖田神社即ち、高賀茂大明神は、東西に連亘する北山の峯巒をあ仰ぎ
城ヶ谷 古墳群を背に幽閑静寂なる仙境の地に鎮座する。
 殖田神社は、賀茂氏の神社であり、祭神は、阿遅鉏高日子根命と申し、
大國主命と多紀理毘売の御子である。阿遅鉏高日子根命は、別名、
迦毛大神といわれ、賀茂氏の祖であり、人間、国土を支配し護る神、
即ち国津神と古事記には記されている。
 賀茂一族は、壬申の乱(672)の活躍にて、天武十三年(684)に八色の姓
の制度により、朝臣の姓を賜はる。この姓の制定は八階級の氏族の身分
制度で従来の姓制を廃し、皇室中心の律令制を整えるため再編成をした
姓の序列で、天皇の対氏族政策の一つである。真人、朝臣、宿禰、忌寸、
道師、臣、蓮、稲置の八階級で、皇族出身より地方有力豪族まで、
それぞれあたへている。朝臣の姓は皇族出身、真人の次位の姓、この
高貴な姓を賜はるは、賀茂一族が「大國主命の後代」であることの
所以である。
 続日本紀に基づくと、「雄略天皇(478)奈良、葛城山にて御狩猟し給へ
るに、高賀茂の神、老夫に姿を変へて表れ給い、天皇と獲物を相追いて、
争い給いしにより、天皇これを大いに怒りて、老夫を土佐国に流し給う」。
「この事を憂ひて」賀茂朝臣田守が、天平宝字八年(764)称徳天皇に
奏請するに、天皇大いに心をいため、急ぎ土佐国より、大和の国の
本拠に復し祀らんとする。然るに其の、和御魂は土佐国より離れ給は
ざるに、猶この国に留め奉り、奉斎の成れる事と定まる。其の四年後、
賀茂朝臣田守は、高賀茂の姓を賜はり、高賀茂朝臣田守と呼ばれて
いる。更に三代実録によれば、貞観八年(866)には、土佐国従五位下、
殖田の神、従五位上、を清和天皇より授かり、古代殖田神社の存在が
記録によって見える。
 さて、高賀茂朝臣田守が、天皇に奏請せし天平宝字八年は、今を
遡ること、千二百四十三年に及び、奈良時代に高賀茂朝臣田守は此の
地を殖田神社と定め祖先高賀茂の神、阿遅鉏高日子根命を祭神と
鎮座奉り給い、御身は高賀茂大明神と崇められ静寂な此の地に鎮まり
給うなり。
 奈良時代より日本固有の神祇信仰と、外来仏教とが融合した
神仏習合が起こり、神社に付属した寺(神宮寺)が建設され、平安時代
になると神前読経がなされ、日本の神は仏の衆生救済のためにとった
其の姿を変えてこの世に現れたものとする(本地垂迹説)仏教の立場
からの説が教理づけられる。
 殖田神社にも東福坊が建設され神社の実務も寺が司った傾向が、
長宗我部地検帳によって見える。室町時代より、江戸時代になると、
神道勢力が増大し、反本地垂迹説が唱えられ、儒者や国学者などが
神道の純粋性を論じて、廃仏思想を高唱し、明治維新政府は神仏
分離策をとる。第二次大戦後、神社は国家管理を離れ信教の自由
の見地により神社本庁に包括される宗教法人となり、神祇恩徳を
奉体し、崇敬者の輪が広がり、神社・住民一体となって発展している。

 神社新築、改築の歴史
 延宝以前の棟札はなく、戦国の乱世に焼失したと思われる。延宝三
乙卯年十一月の棟札によると、本殿、拝殿共こけら葺の新築に建替え
られている。寛政八年丙辰六月二十五日、本殿、弊殿、拝殿一棟造り
共に改築にて屋根はこけら葺であったものを、文政九年二月弊殿、
拝殿を瓦葺とした。
 平成十九年四月より、本殿、弊殿・拝殿一棟造りで改修を始め、
拝殿の前に向拝場所を造り、本殿のみ銅板葺で、弊殿・拝殿・向拝場所
は瓦葺とし、同年十二月に完成する。

 平成二十年一月吉日 久礼田地区史談会 山崎道信 撰

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