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国府跡


2002年5月13日 国府小学校をめざして来ました。


小学校の塀際に、珍しい丸い自然石の3方向への方向案内石がありました。


細い道を東方に向かうと南国市比江の古今集の庭ができていました。


投句された和歌を展示する場所ができていました。


句会ができるように曲がりくねった小川が作られていました。


万葉集に歌われた植物が植えられていました。


自然石に刻まれた「国府の碑」です。

国府の碑について

 明治30年国府村が生まれた。
 藩政時代の国分、比江、左右山の3村が、明治22年合併した国比左村を改称したもので、国府の名は、この地に奈良平安の古代、土佐の都国府が置かれたことに由来する。
 当時の村人たちが熱い愛郷の誇りを現したものであって、爾来、行政区域は合併により、後免町から南国市へと変わったが、国府の名は地区名として連綿と受け継がれてきた。
 国府史跡保存会は、昭和34年7月創立。地区内全戸が会員となり,土佐のまほろばの中核をなす史跡群の維持顕彰につとめ、史跡の傷みを心の痛みとして守り続けてきた。
 ここに創立40周年を迎え、記念として国府の名を永く後世に伝えんと、この碑を建立する。
  碑表の書 南国市長 浜田 純
 平成11年9月25日
 国府史跡保存会建之


短歌、俳句、ご意見の投稿ポストがありました。


ここが紀貫之が住んだ家(国司館)の跡。
添えられた立て札にはこのように書かれていました。

国司館跡(紀貫之邸跡)

 奈良天平の時代から比江の地に土佐の国府が置かれた。
 貫之は延長8年国司として来任。この地に住居した。地名を内裏(ダイリ)という。
 承平4年任満ちて京都へ帰るときの船旅日記「土佐日記」は特に名高く歌人として第一人者であると共に国司としても極めて優れ人々に敬慕せられた。
 ここに建つ碑は天明5年(寛政元年竣工)のものと大正9年及び平成元年建立のものがあり、何れも後人が紀氏の徳を慕いその業績を讃えたもので、また俳人高浜虚子の句碑もある。


国衙跡・紀貫之邸跡は前田秀徳著「龍馬からのメッセージ」に掲載されています。

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