・・・坂本龍馬についてちょっと・・・

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以下に私の友人たちのメールから紹介します。

坂本龍馬の誕生日と、亡くなった日が同じ日だということ知ってた?(杉)

 ちなみに、坂本龍馬年表をひもとくと、
1835 天保6年 1歳 11月15日郷士坂本長兵衛(のち八平と改める)直足の次男として、高知城下本丁筋に誕生。
1848 嘉永1年 14歳 城下築屋敷の日野根弁治道場で、小栗流剣術を学ぶ。
    (私もこの築屋敷で生まれ育ったのだ。)
1853 嘉蔚年 19歳 3月・「小栗流和兵法事目録」一巻を伝授される。
    剣術修行のため、15か月の国暇(くにいとま)を得て、溝淵広之丞と江戸へ出発する。
    北辰一刀流千場定吉道場に入門する。
1854 安政1年 20歳 6月江戸より帰国。河田小龍に会い、蒸気船などについて啓発される。
1858 安政5年 24歳 1月千葉定吉より「北辰一刀流長刀兵法目録」を受ける。
1861 文久1年 27歳 8月武市半平太「土佐勤王党」を結成。9月龍馬もこれに加盟。
1862 文久2年 28歳 3月澤村惣之丞と共に脱藩。4月土佐勤王党那須信吾ら吉田東洋暗殺10月勝海舟の門下生と なる。
1863 文久3年 29歳 2月脱藩の罪を赦免される。10月神戸の勝塾塾頭となる。
    12月土佐藩よりの帰藩命令に応じず、再び脱藩。
1864 元治1年 30歳 海舟との関係で東奔西走。西郷隆盛、横井小楠らと会う。
1865 慶応1年 31歳 閏5月長崎で「亀山社中」を設立。この年、土方楠左衛門、三条実美、桂小五郎らに会う。
1866 慶応2年 32歳 1月・薩長同盟成る。
    伏見の寺田屋で幕吏に襲われるも無事脱出。お龍を伴って薩摩に旅する。
1867 慶応3年 33歳 4月・脱藩の罪を赦免される。
    「亀山社中」を「海援隊」に改編し、龍馬海援隊長に就く。・いろは丸沈没事件起きる。
  6月 後藤象二郎、長岡謙吉らと夕顔丸で長崎を出港。「船中八策」成る。
    薩土盟約を結ぶ。
  7月 英軍艦イカルス号の水夫殺害事件、9月の英米人殺傷事件の処理で、龍馬活躍。
  9月 オランダ商人より銃1300挺を購入し、そのうち1000挺を土佐藩に売却する。
    6年ぶりに坂本家に帰り、家族や同志と歓談。
 10月 後藤と福岡、老中板倉伊賀守に船中八策を基本とした大政奉還建白書を提出する。
    徳川慶喜、大政奉還の決意を表明。
 11月15日京都近江屋で、中岡慎太郎といるところを刺客に襲われて闘死する。

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坂本龍子の墓前祭(鶴)

 昨十六日、神奈川県横須賀市大津町の信楽寺(しんぎょうじ)で執り行われた「坂本龍子墓前祭」に行ってきた。
 「坂本龍子」誰のことかお分かりですか。高知の人なら誰でもすぐピンと来るでしょう。そう、あの坂本竜馬の愛妻「お龍さん」です。
 慶応三年11月15日竜馬の遭難後、三吉慎蔵の計らいで彼女は土佐の坂本家に戻った。しかし竜馬と同じく時代を超えた女性であったお龍は、所詮土佐には“あだたん”人間で、東山霊山にある竜馬の墓守をするという理由で、坂本家を出た。
 その後明治五年頃東京に出て、西郷の保護を受けたが時期もあったが、彼の下野の後、母と弟と共に一時品川の薩摩屋敷に寄寓した。が、天涯孤独となってからは、神奈川宿の田中屋という料亭で仲居として働くようにり、この頃から深酒に溺れるようになった。
 やがてこの料亭の客で回船業西村松兵衛に退かされ明治八年7月入籍し、名を西村ツルと変え、横須賀に所帯を持った。やがて夫松兵衛は事業に失敗し大道商人となるが、それでもお龍の酒は止む事無く、酔っては竜馬を偲び、太政官の顕官を罵る日々が続いた。松兵衛はこのお龍の自堕落と自尊心に傷つきながらも、僅かな稼ぎの中から彼女に酒を運び続けた。彼がいたからこそお龍は過去の夢に浸り続け、坂本竜馬の妻としての矜持を保つことができたのだろう。
 明治三十九年1月15日享年66歳で彼女の波乱に富んだ人生は幕を閉じた。死後八年経って香川敬三や元陸援隊の田中光顕等の篤志で地元の信楽寺に墓碑が建立された。しかし後半生の酌婦の身の上が檀家に受け入れられず、お龍は信楽寺門外に葬られることになった。
 数年前この地を訪ねた時も、山門に至る二十数段の石段の脇に侘びしく建っていたが、花や線香が絶やされることがないと聞いて少しほっとしたものだった。昨日行ってみると、墓は境内の奥の高みに移され、立派な顕彰碑も作られていた。お龍さんもやっとくつろいでいることだろう。
 墓前祭は導師となった信楽寺住職の読経で始まり、市長や代議士代理の挨拶、高知市長の特使も参列し想像したよりキチンとしたものだった。私もお焼香をさせてもらい、墓前にお線香を上げることも出来た。
 今年2月桂浜の竜馬像が修復のために地上に降ろされた折、思ったより優しげで男前の竜馬さんの尊顔を間近に拝し、昨日はお龍さんの法要に参加し、歴史の中の坂本竜馬が、私の中で急に身近な「竜馬さん」になって、『よう来たのう、しゃもで一杯やらんかよ』と笑い掛けてくれたような気がした。

(吉)

慶応2年4月(1866年),鹿児島の西郷を訪ねた竜馬はお龍とともに,
3週間近く霧島連峰山麓の日当山温泉,塩浸温泉,硫黄谷温泉を巡っ
ている.いわゆる日本で初めての新婚旅行である.現在,塩浸温泉に
は竜馬,お龍の旅碑が建てられている.

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坂本龍馬のもう一人の妻って?(荻)

 甲府は武田神社のそばのお寺(清運寺)の小田切家の墓所の一角に千葉さな子という碑銘の墓がある。背面には「坂本竜馬室」と記されている。
 竜馬が江戸の千葉道場に入門した時、千葉周作の弟の千葉定吉に教えを受けるが定吉には佐那という娘がいた。武芸家の娘で幼時より武芸稽古事に励み十幾つかで長刀は免許皆伝であったという。数年間を、美人で元気溌剌な師の娘と共に修行するうち二人は恋仲になる。
 そして定吉から結婚を許され、坂本家からは婚約の証に家紋入りの袷衣が贈られる。が、婚約状態のまま道場を出た竜馬は9年後に世を去る。佐那は竜馬がお龍と結婚したことも知らなかった。
 明治になり、学習院の舎監をしたりしていたがやがては下町の長屋で細々と昔憶の針灸で生計を立てていた。
 甲府の商人の妻が江戸に良い灸があると聞き佐那を訪ねるが二人は生涯の付合いとなる。この妻は、竜馬の死後も竜馬を思慕し続け袷衣の坂本家家紋を切取って生涯身から離すことがなかった佐那を不憫に思い、身寄りの無い佐那の死後も自家の墓所に分骨埋葬し、自分の死後も家族同様に供養するよう子孫に言い遺したという。

 坂本竜馬は、1835年11月15日に生まれて1867年11月15日に亡くなった。
 これはよく知られた話なのかなあ?
 坂本竜子は、1906年1月15日に死去。
 千葉佐那(もう一人の妻)は1896年10月15日に死去。
 みんな15日で面白いね。

 これは風頭(かざがしら)公園というところにある.
 風頭公園は長崎の寺町というところか上ったところにあり,港も見渡せる.下れば,丸山も近い.亀山社中からも近い.
 風頭公園では,出島の時代からけんか凧(長崎では凧はハタと呼ぶ)がここであげられてきた.ぶらぶら節にも長崎名物ハタ上げ,盆祭り,,,,とある.(吉)
 像は坂本龍馬。では、旗は何の旗?