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山中家住宅


2013年5月31日(金) 本川から越裏門(えりもん)にやってきました。


長沢ダムの堰堤から湖畔を走り、赤い橋を渡ると、間もなく湖畔から離れます。


湖畔から離れると間もなく県道の右側に立て札や案内が立ち並んでいます。
ここで右折して町道越裏門地主線に入り300mほど走ります。


すると、上の方に思いがけず集落がありました。


まだ少し上の方にも家屋が見えました。


やがて、入口に到着しました。ここに数台分の駐車ができる広場がありましたので、車をおいて
なだらかな坂道を歩きました。山中家住宅は昭和47年5月に国重要文化財に指定されています。


歩いて上がる途中に、たぶん山中家の御先祖が眠っているだろう墓地がありました。


標高700mの山地の季節柄、やっとユキノシタが咲き始めていました。


見上げると藁葺き屋根が見えました。


数台分の駐車場がありました。ここから階段になります。
ここにはトイレがないので、必要なら下の県道まで出て公衆トイレを利用してくださいという案内板です。


このあたりの庄屋だったのでしょうか。何か歴史的な風格を感じます。


石段を上がると、住宅の東側全体が見えました。


藁葺きの軒です。


南側の軒です。


雨戸の始末は戸袋ではなく、枠だけです。しかも下の受けは上より狭いです。
柱についているのは説明音声を聞くためのスイッチで、上に白いスピーカーが
ありましたが、スイッチを押しても残念ながら鳴りませんでした。


雨戸が開いていた茶の間の中心には、いろりがあり、天井から自在鉤が下がっていました。
右隣には「おおで」「まえおおで」と呼ばれていた座敷が2つあるようです。


家族が多くいた頃には、水屋からお菓子など取り出して、いろりを
囲んでの団欒風景が見られたことでしょう。


自在鉤のぶら下がっていた梁です。


建物の西の端です。この中には土間やかまどのある台所などがあるようですが、締め切られて
いたので遠慮しました。


建物の西側です。農家らしく道具が置かれていました。


建物南側を見通したところです。濡れ縁には山中家住宅の資料
が数部置かれていて、それには見学及び問い合わせ先として、
いの町教育委員会本川教育事務所と書かれていました。
最初から知っていれば長沢で立ち寄って来るのでした。

重要文化財山中家住宅修理記

事業概要
 解体修理
  着工  昭和五十年三月一日
  竣工  昭和五十一年三月三十一日
 総事業費 金三○、○六七、七四七円
   収 入 内 訳
  金二四、○○○、○○○円  国庫補助金
  金  三、○○○、○○○円  高知県費補助金
  金  二、一○○、○○○円  本川村費補助金
  金    九六七、七四七円  所有者負担その他

工事組織
 この工事は、設計監理を財団法人文化財建造物保存技術協会が担当し、施行、事務は、重要文
 化財 山中家住宅修理委員会を組織して執り行った。工事は競争入札の上一括請負とした。

山中家について
 山中家の由緒について明らかにする資料はなく建物の規模、質から見て当地方の中堅農家であ
 ったと想像される。

建物の建設及び修理の経過
 建物の建設年代を直接示す資料がなく、部材やその工法、又当家には明和六年(1769)の位牌
 がある等、これらを総合して十八世紀前半頃の建設と見るのが妥当であろう。
  その後の修理経過についても明確にする資料は発見できず、後補の部材及び工法等によって
 幕末がら明治、大正、昭和にわたって軸組の一部、柱間装置など居住柱に応じて部分的な改変
 がなされ、また昭和十五年頃屋根葺替えが施されてており、この際「よま」部分の小屋組の一部、
 野地材は全体をすべて取替えられ、建物西側に約半間通りの下屋庇を増築して、炊事場、物入、
 土庇などが構えられていたが当初の主要部材がよく保存されており建物は相対的にほぼ旧状を
 止めていた。
  尚今回の解体調査によって旧柱番付が発見され、建物西寄り間「よま」部分も当初計画による
 もので、後世の建増しではない事が判明した。

修理の大要
  修理は建物を一旦すべて解放し、梁、柱、指物等の腐朽材を取替え、その他耐久力のあるもの
 は断木、矧木の繕いを施し、旧材の再用に努め組直したが構造形式は旧規を踏襲し、後世の改
 造部分で痕跡資料詳らかな所は当局の許可を得て当初の形式に復旧整備した。
  礎石の沈下、狂いの著しいものは、コンクリート基礎をして据え直し、その他は根巻きコンクリー
 トの補強をした。雨落葛石は不足分を補い据え直し、背面には雨落溝を新設した。床下土間は良
 質の山土を埋め戻し石灰を混入して叩き締めとした。雨落葛石内はすべてコンクリート叩き、色モ
 ルタル塗り刷毛引仕上げとした。
  建具のうち板戸は当初、中古のものは可能な限り補修再用しその他を新補した。障子はすべて
 後補のものであったが一部補修再用し、補足分は在来のもののうち古様のものに倣い部分統一
 した。舞良戸は「おおで」戸棚の横舞良板戸を参考としてすべて新調取り替えた。
  畳は すべて新補したがこれは居住性を考慮しての仮設である。
  小屋組は在来に倣い一部を除いて和小屋組「よま」部分は又首組とし、母屋桁、垂木は「ヒワダ
 カツラ」及び女竹等を使用して在来の工法によって搦みつけた。
  屋根葺用山茅は長岡郡大豊町方面より購入し平葺は軒先約五十五センチメートル、棟際で約
 四十五センチメートルに在来の工法を踏襲して葺き上げた。
 棟積は発見された旧鞍掛部材によって旧規に復した。

現状変更
 一、西側に増築された後補の炊事場、物入れ、土庇を撤去した。
 二、東側濡れ縁及び南側濡れ縁東端部の縁構えを撤去して土庇に復した。
 三、北側板壁の壁貫中一段を二段貫に復した。
 四、「よまのおく」西上屋柱通りの切除された繋梁を復旧し、室の東寄りに囲炉裏をあらわした。
 五、「おく」の「ちゃのま」境東の間に戸棚を復した。
 六、内外の柱間装置を復旧整備した。
 七、南側濡れ縁の木口張りを布張りに復すと共に「ちゃのま」南側の雨戸構えを撤去した。
 八、大棟に鞍掛けを復した。

以上工事の大要を記して後資とする。
   昭和五十一年三月三十一日
    重要文化財 山中家修理委員
       委員長 伊東 励
       当主 山中 秀樹
    文化財建造物保存技術協会
       理事長 有光 次郎
       工事監督 上田 虎介
       工事主任 管  保


帰りに墓所に上がってみました。山中姓の墓石が並んでいました。


立派なお墓です。やはり土佐郡越裏門八代庄屋という文字が見えます。


ところが上の方のいくつかは山内姓で、しかも黒白二本線の家紋がありました。
墓碑の碑文を時間を掛けて読む時間がなく、不思議に思いながら帰りました。

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