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中城家・川島家


 2004年5月25日。

 病気回復後初めての歴史探訪です。
 中城家は慶応3年9月23日、坂本龍馬が脱藩の身でありながらライフル銃千挺とともに、最後に帰郷したときに潜伏した家として有名です。
 現在も子孫の方が住まわれており、普段は資料の整理などで大変忙しく来客の相手はできないということでしたが、幸運なことに私たちはちょうど手の空いたときに尋ねることができたようです。

 中城家は鹿持雅澄と親交があった文人を祖先に持ち(中城直守)、回船船頭や、幕末には堺事件の生き残りとなり戊辰戦争では会津まで従軍、この種崎に造船業や製材業、南方貿易などをおこしました(中城直顕)。近世では教育に携わった後、高知県史を編纂し、初代の県立図書館長となった方(中城直正)もいます。
 種崎地区には三里史談会があり、史談会通信の発行や直顕の孫にあたる中城正堯氏による講演会を開催しています。

 龍馬の継母伊与の里、川島家はすぐ近くにありましたが、龍馬が20歳の時の安政地震で津波の被害を受けたので、現在の場所に移ったそうです。
 龍馬の実母幸は龍馬が12歳の時に亡くなっていますから、その後伊与が来てからは川島家によく遊びに行ったようですね。だから、この中城家ともおつきあいがあったのです。


中城家


 種崎の先端まで伸びている旧街道の中程でした。


 中城家は山内家御船手方。その子孫も南方貿易を行い、船荷が空の時には
このような貝殻を積んで船に安定性を持たせ戻ってきたそうです。


 庭は道路拡幅により当時より狭くなり、奥の築山はそこに植えられていた合歓の木が
大きくなりすぎて、その根が崩してしまったそうで、養生中でした。


 庭の入り口近くには、すばらしい岩の手水鉢がありました。


母屋は改造したけれど、この離れは龍馬が泊まったときのままだそうです。
龍馬お気に入りの浮世絵を貼ったフスマやその他資料は高知市立図書館に寄託してあるとお聞きしました。
今はここから浦戸湾の岸までの間には他所の建物がありますが、当時は竹藪があっただけで、
この離れまで浦戸湾の岸から歩いて来ていたそうです。


2008年2月24日 坂本龍馬を泊めた部屋が公開されるというので中城家を再度訪問しました。


1枚上の写真の内側を見ることができました。


龍馬がこの部屋に来て待つ間ふすまの絵などを熱心に見ていたといいます。
掛け軸は後のものです。


押し入れは板戸でした。


ここから天井に上がることができたようです。


擦り減った敷居が歴史を感じさせます。


門脇の塀です。ちょうど八重咲きのクチナシのような花が咲いていました。


川島家


安政地震津波後の川島家は、十津から仁井田に入ったばかりの、みさと幼稚園入り口の看板が
ある交差点から入るとすぐでした。
仁井田、三里は花卉園芸が盛んです。川島家の前には菖蒲畑が広がっていました。


 ここまでにまったく何の案内板も説明板もなく、声をかけるのもためらわれ、そのまま帰って来ました。

中城家、川島家は前田秀徳著「龍馬からのメッセージ」に掲載されています。

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