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田口求道明哲


 すばらしい彫刻を施した台座と美しく深く掘られた文字です。頂頭部の曲面もあまり見ない形です。当時の土佐の墓石屋の技術の粋を尽くしたと思われます。それだけ医者として仁徳があったのでしょう。墓石の周囲三面には業績を記す文字がびっしりと埋め尽くしています。

高知市の丹中山にある
田口求道の墓碑
君諱明哲字士新通称求道号晩
稲考田口諱種益妣小松氏育四
子士新其三男也學医于大久保
桑名之両門業成文政七年ト家
於城西朝倉居数年転徒于北奉
公人街業日弘焉舊君山内公聴
之容拝謁焉安政紀元地大震公
設救民舎君請以施薬護之四年
夏特擢用人格賜稍食三口屡役
于京
攝及江都之間三膺褒典 戊辰之
変嗣子文良以功挙留守士隊加
賜稍食一口禄六石君為人淡泊
節倫下人親 輯睦及身老任業嗣
子従容自養焉配福富氏生三男
二女長女及二男早夭明治十年
一月廿又一日以病卒年七十又
三葬于石井村丹中山士新与余
友善甞同飲酒令余作壽蔵文余
諾而未果而没令茲明治十四年
九月嗣子来請碑銘所以不辞也
鉛曰
求道得道 刻苦其功 躋人壽域
福禄所同 三世立基 家名無窮
            奥村祐辰撰
妻名佐恵福富易和之三女明治
十二年十二月八日卒年六十又

            志和直利書

田口文良明俊


天保13寅年9月11日生 明治17年2月27日病死 葬丹中山
妻郷士長尾貞次重直養育人 高芝小七郎章明女 名は久 嘉永2酉年12月27日

 父の求道の墓石には及びませんが、台座の彫刻がすばらしく、文字も深く彫られています。
この人の墓石を立派なものにしようという職人の意地を感じさせます。

 父の医業を継ぎましたが、土佐勤王党に加盟し、幕末には迅衝隊の医師として戊辰戦争に参加しました。
明治になると五台山にできた西洋病院において西洋医学の普及に努めました。

丹中山の田口家墓所にある
田口文良の墓碑
君諱明俊通称文良襲父業及禄
學術本藩浪華東京於横濱研究
英醫文久元年開業慶応三年以
命代父於京都戊辰之變従迅衝
隊以職務盡力除留守士隊賜食
禄別賜賞典米許多後為醫學司
調役及長明治四年免同十七年
二月十日病卒年四十葬石井村
丹中山配高芝小七郎長女名久
生二男三女
      澤村祐辰撰
      島崎利通書

 高知市民図書館より刊行された「土佐藩戊辰戦争資料集成」(林 英夫編)の中に「東征道の記」(弘田親厚)があります。
 土佐藩を含む官軍には西洋式に日本で初めて従軍の病院が編成され、土佐藩の病院頭取が弘田親厚でした。
 その「壱の巻」中から一部要約、引用「」させていただきます。

 明治元年二月十四日には、「病院組下として附属の医師横川酸達正勝・細川養碩廣世・田口文良明俊・北川鎌伯則寿・森田良斉義利・大久保元良高良・久米宗碩正則・高橋良益元高・小橋渡吉吉正等十人其余歩卒三十人を卒して打ち立ちぬ」
 十七日には「雨いたく降りける」中、関ヶ原を抜け、十九、二十日は大垣に滞陣したようすが書かれている。
 二十一日には大垣を出発し二十三日には木曽川のようすが書かれている。
「二十四日 ・・・・、御嶽の宿にて関東の形勢もそこそこ聞べける由にて此処より惣軍道を早めて押行ける、正形は参謀を兼し事なれば岩倉殿の本営に添うて一日後より進みける故病院より田口明俊を添置きけり、此辺も官軍拝見の人夥敷出たり」
 三月には七日から九日にかけて甲府勝沼、石和での戦闘のようすが記されている。
 「十三日 晴、八王寺を打立府中の宿に着きぬ、けふは未だ日高けれども賊の江戸本城近ければ猶又伏兵等も有らんかと陣列を厳にして府中へ止まりける、四小隊斥候として前駆しけるにより病院よりも横川正勝・田口明俊を差し添えける」
 十四日からは新宿に滞陣し、江戸見物などをしている。十八日には市ヶ谷尾張候の屋敷に着陣。
「十九日 晴、此の日因州勢の内壱人外輪にて誰とも知らず後ろより切られ手傷を受け立ち帰りけれども、因州病院狼狽して手術隙取りければ我が病院へ頼み来たりける故立ち越し療術を施しける、田口明俊・北川則寿随従せり」

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