祖先は一条氏の従者だといわれています。
藩校教授館の写本校正係をしていました。
土佐勤王党の武市半平太や吉村虎太郎などが門下生で、土佐の勤王思想に大きい影響を与えました。
安政5年(1858)、68才で死亡。
万葉集研究を行い、「万葉集古義」141巻を書き著しました。
2000年11月12日 鹿持雅澄の墓を訪れました。
高知市北部環状線と中須賀通の交差点から西へ進むと間
もなく左手(道路南側)に山が迫り、この階段が見えてきます。
階段を上り詰め更に少し山腹を行くと生け垣のある場所
に出ます。続いて山を下る道もありますが、ここに入ります。
大きな頌徳碑の向こうに小さい墓の列が見えます。
真ん中の墓が雅澄の墓で左側が妻の墓のようです。
妻のきくは武市瑞山の叔母だそうです。
生け垣を隔てて隣は鹿持神社でした。
鹿持邸跡もすぐ近くのようです。
2005年4月10日 鹿持雅澄邸跡を訪問しました。
「竹之下」バス停付近で案内板を見つけました。
鹿持雅澄邸跡の碑
下の広場にお屋敷があったようです。
高知市教育委員会が建てた説明板の中に、発掘された柱の跡から推測された宅の図がありました。
「わかき子の 乞い泣くごとに吾妹子が かきなでしくし 忘らえめやも」という雅澄の歌碑。
歌碑の裏には生誕二百年の記念事業実行委員会の銘板がありました。
雅澄翁100年祭歌碑 佐々木信綱
井戸跡
鹿持雅澄の墓は山本泰三著「土佐の墓」に掲載されています。
鹿持雅澄邸跡と墓所は前田秀徳著「龍馬からのメッセージ」に掲載されています。