「応仁の乱」の戦乱を避けて前関白一条教房はそれまでにも領地であった土佐の中村に移って来ました。
当時幡多郡は「波多庄」といい、教房は町作りに精を出しました。
京都には一条冬良が残り、京一条を継ぎます。
房家は文明9年に中村で生まれ、18才で国司に任命され、土佐一条の初代となり、その後45年間にわたり中村で土佐を治めました。
(教房を初代としている資料もある)
2003年3月2日 宿毛市内を取材して帰りに平田に寄りました。
一条房家がここに来たとき、この山が紫の藤の花で覆われていたそうです。
たいへんここが気に入って、菩提寺を建て籐林寺と名付けました。
墓所に上がる階段は苔むしています。
正二位権大納言まで進んだ房家公のお墓です。思ったより小さいですね。
天文8年(1539)63才
法名は「籐林寺殿正二品東泉大居士」
ほかにもいくつかお墓がありましたが、奥方や家臣でしょうか。
長男房冬が土佐一条家を継ぎ、三男房通は京一条家冬良の跡を継ぎました。
<お雪入水の地>
時代は変わって、お雪入水の地です。
土佐一条家は二代房冬の後は三代房基、四代兼定と続きました。
一条兼定は平田の美人お雪さんにすっかり惚れ込み、お雪御殿と呼ばれる家を建て、狩りと称しては平田に通いました。
しかし、政務をおろそかにし、わがままな振る舞いを続けた兼定は、怒った家臣たちに豊後に追放され、お雪は入水自殺してしまいました。
その後間もなく、長宗我部元親によりこの地は征服されて、天正2年(1574)元親の土佐統一が完成しました。
一條房家の墓は山本泰三著「土佐の墓」に掲載されています。