土佐の歴史散歩

寺田寅彦年表


和暦 西暦 満年齢 で き ご と
明治11年 1878 0 11月28日東京平河町で誕生。父は陸軍会計監督。
明治12年 1879 1 父が名古屋に赴任。一家で転居。
明治14年 1880 3 知多半島に海水浴。父は熊本鎮台に単身赴任。
父が高知市大川筋に家を購入、祖母や母などと転居。
明治16年 1883 5 江の口小学校入学。
明治18年 1885 7 父が東京に赴任。一家は再び東京に転居。
番町小学校に通学。
明治19年 1886 8 父が退役。高知に帰る。
明治22年 1889 11 祖母74歳で没。
明治23年 1890 12 隣人に英語を習う。
明治24年 1891 13 肺尖カタルを患い、休学。
父が小津神社に病気平癒の願をかける。
明治25年 1892 14 学校復帰。小津神社に願ほどきに石灯籠を献上。
中学2年に飛び級入学。種崎で海水浴。
明治26年 1893 15 甥と室戸岬に旅行。東寺で先祖の一海和尚の墓参り。
明治27年 1894 16 日清戦争が起き、父が招集されていた名古屋へ旅行。
明治28年 1895 17 東京で1ヶ月滞在。
明治29年 1896 18 高知県立第一中学校を主席で卒業。
熊本第五高等学校第二部に入学。
明治30年 1897 19 夏子(14)と結婚。夏子は高等女学校に入学。
明治31年 1898 20 バイオリンを買う。特待生になる。
明治32年 1899 21 熊本第五高等学校を卒業。東京大学理学部に入学。
根岸庵に正岡子規を訪ねる。ホトトギスに「星」「祭」が掲載される。
明治33年 1900 22 西片町に妻夏子を呼び寄せ初めて二人で生活する。
明治34年 1901 23 この頃長女貞子生まれたか。
夏子夫人転地療養のため種崎に。
寅彦も肺尖カタルと診断され、須崎で転地療養する。
明治35年 1902 24 寅彦は転地療養を終わり東京へ。夏子夫人死去。
明治36年 1903 25 東京大学卒業、大学院へ。海水振動の調査を始める。
明治37年 1904 26 東京大学の講師を嘱託される。音響学、波動論文を発表。
明治38年 1905 27 「ホトトギス」に「団栗」、「竜舌蘭」が掲載される。
高知で浜口氏の娘寛子と結婚し、東京小石川原町で生活を始める。
明治39年 1906 28 「ホトトギス」に「嵐」が掲載される。磁気、尺八研究論文。
明治40年 1907 29 長男東一が生まれた。朝日新聞に「話の種」を書き始める。
明治41年 1908 30 理学博士の学位をもらう。「ホトトギス」に「花物語」が掲載される。
明治42年 1909 31 東京大学助教授となる。次男正二が生まれる。
ドイツ・イギリスに2年間の留学に出発。妻子は高知へ。
ベルリン大学に入学し宇宙物理研究、北ドイツ、ロシア、北欧、オーストリア、イタリアを旅行。
明治43年 1910 32 ロンドン、スイス、南ドイツへ旅行。ゲッツィンゲンに移動。
明治44年 1911 33 パリに移動の後ロンドンに移動。サザンプトンからアメリカに向かう。横浜に帰着、本郷に居をおく。
明治45年 1912 34 (大正元年)次女弥生が生まれる。父利正が上京。
大正2年 1913 35 父利正が77歳で死去。
大正3年 1914 36 高知東部の親族廻りをする。
妻寛子に肺尖カタルの兆候が見える。長女貞子が高等女学校に入学。
高知の家を引き払い母、長女と東京へ。長女は三輪田女学校に転校。
大正4年 1915 37 3女雪子が生まれる。
大正5年 1916 38 東京大学教授になる。胃潰瘍になる。
夏目漱石が死去。
大正6年 1917 39 「ラウエ映画の実験方法及其説明に関する研究」が恩賜賞を獲得。
長女、長男を連れ高知に帰り、講演を行う。妻寛子が死去。
大正7年 1918 40 酒井紳と結婚。
大正8年 1919 41 胃が悪化し吐血した。
大正9年 1920 42 大学を休み療養する。文学を読み、総合雑誌に随筆を発表する。
大正10年 1921 43 療養生活が続く。「田園雑感」が「中央公論」に掲載される。
大正11年 1922 44 昨年末から大学に復帰する。
「亮の追憶」が「明星」に掲載される。
大正12年 1923 45 随筆集「冬彦集」が岩波書店より出版される。
「藪柑子集」が岩波書店より出版される。
関東大地震に遭う。火災の調査を行う。
大正13年 1924 46 長男東一が第一高等学校へ入学。
理化学研究所の研究員になる。
長女貞子が森博通と結婚。
大正14年 1925 47 次女弥生が東京府立第一高等女学校へ入学。
帝国学士院会員となる。
大正15年 1926 48 (昭和元年)東京大学地震研究所員になる。
「日本地震学史」を提出。
母亀が本郷で84歳で死去。高知で埋葬。
昭和2年 1927 49 長男東一が東京大学理学部へ、三女雪子は三輪田高等女学校へ入学。
地震研究所員専任となる。
「土佐及び土佐人」へ「土佐の地名」を書く。
「怪異考」が「思想」に掲載される。
昭和3年 1928 50 次男正二が静岡高等学校に入学。
映画を見るようになり、随筆「映画時代」を書く。
昭和4年 1929 51 「万華鏡」が出版される。
昭和5年 1930 52 長女貞子の夫が死去。次女弥生が府立第一高等女学校を卒業。
昭和6年 1931 53 次男正二が東京大学文学部へ入学。
「蓑田先生」が理学部会氏に掲載される。
昭和7年 1932 54 「郷土的味覚」を江の口小学校の「郷土読本」へ寄稿。
長男東一が大学を卒業、北大理学部助手に、三女雪子が三輪田高等女学校を卒業、文化学院へ入学。
「続冬彦集」が出版される。
昭和8年 1933 55 「重兵衛さんの一家」が「婦人公論」に掲載される。
次男正二が大学を卒業。
「柿の種」が出版、「涼味数題」が「週刊朝日」に掲載される。
「物質と言葉」、「蒸発皿」、「地球物理学」が出版される。
昭和9年 1934 56 「庭の追憶」、「夕凪と夕風」、「初旅」、「藤棚の陰から」、
「追憶の冬夜」、「触媒」などが掲載あるいは出版される。
昭和10年 1935 57 長男東一が北大理学部講師となる。
「新年雑感」、「相撲」、「追憶の医師達」、「物売りの声」、「五月の唯物観」、「自由画稿」、「蛍光板」、「海水浴」、「糸車」などが掲載あるいは出版される。
寅彦の日記は7月5日に終わる。
三女雪子が青木滋と結婚。長男東一と小野礼子とが婚約。
移転性骨腫瘍により12月31日夜、死去。翌年1月6日告別式、高知の墓所に葬られる。
昭和24年 1949 (10月) 「寺田記念館」落成

(「寺田寅彦と土佐」川村源七 高知市役所昭和32年12月1日発行より抜粋
また、高知市寺田寅彦記念館パンフレットより追記)

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