幼名は乾猪之助 天保8年(1837)〜大正8年(1919) (子ども向けIT読み物>いずみ書房オンラインブック)
武田信玄の家臣を先祖に持ち、その後の先祖が乾と姓を変え山内家に仕えはじめました。
父は乾正成。
子どもの頃はとてもわんぱくだったようです。
吉田東洋に学問を教わりましたが武力討幕派となり、中岡慎太郎らと交わっています。
戊辰戦争ではリーダー格に選ばれ、甲府での戦闘のとき、先祖の板垣の名を名乗り甲州の人々を味方につけようとしたそうです。
明治になり新政府に参加、征韓論を主張しました取り上げられず西郷隆盛とともに政府から下ります。
その後民権運動を推進し議会政治を要求しました。高知での立志社に始まり、大阪では愛国社、そして自由党を結成します。
1882年には岐阜で遊説途中暴漢に襲われ、「板垣死すとも自由は死せず」という有名な言葉が残りました。
1890年に帝国議会が開設されると立憲自由党とし、さらに対立していた進歩党を吸収し憲政党に発展させ大隈内閣を作ります。
しかし、わずか4ヶ月で内閣解散になり、晩年を迎えます。その後は社会事業に力を尽くし、1919年82歳で亡くなりました。 >板垣退助墓
討幕運動から明治維新に関わり、民権運動を起こし議会の創設を推進した、高知県のみならず、日本の誇るべき政治家の一人です。
2003年1月25日 市内の史跡めぐりをしました。
板垣退助生誕地の碑は大橋通電停交差点から南に進み、1つ目の信号交差点を左(東)に曲がるとすぐの高野寺(こうやじ)
というお寺の門の横にあります。
2003年3月21日 桟橋にやってきました。
今まで何気なく通過していた場所でした。
高知港東洋電化工場の脇に「板垣退助先生邸址」と彫られた大きな石碑が建っています。
大正13年に建設同志会が建てています。
山内家がその釣り御殿を、板垣退助の
東征の功を讃えて与えたといわれています。
自由民権期の彼の本邸として使われ、
明治十年以降県内外の多数の民権家が
ここを訪れた記念の地だそうです。
どんなにりっぱな建物であったのでしょうか。
板垣退助を顕彰するため「憲政之祖国」碑を
建て「憲政館」として開成館跡地に移築した
らしいけれど建物は今は残っていません。
対岸の五台山との間に浮かんでいるのは丸山台です。
明治16年8月板垣が外遊から帰ってきた折りに、ここにあった
料亭で自由党員が歓迎の宴を張ったといいます。
鏡川の南岸に昭和60年に山本大撰、里見義裕書による
小さな記念碑が建てられています。
今は鳥の営巣地になっています。
板垣退助邸跡は前田秀徳著「龍馬からのメッセージ」に掲載されています。