嘉永6年容堂公お側役として登用。容堂公の公武合体論を信じて進歩的な立場をとった吉田東洋とともに容堂公を支えた重臣でした。
境事件では容堂公の名代として、家老深尾鼎とともに大阪にかけつけました。
土佐勤王党には協力的で大石、武市、坂本らとの会合にも参加していたようで、勤王党弾圧の時には大目付の役を解かれました。
2003年2月2日 大川筋を歩きました。
向こうに見えるのは大川筋武家屋敷の土蔵です。
こんな川っぷちに小南邸跡の碑が立っているなんて、もとはこの川はなかったのでしょうか。
それとも今は道路となっているところが屋敷地だったのでしょうか。
後で高知郭中図を見ていると、小川の北岸のここの部分はもとは道が通ってなく、小南家の
屋敷地だったのが、幕末頃に変形の通路ができてきたようです。
小南家墓所はこちら
小南五郎右衛門邸跡は前田秀徳著「龍馬からのメッセージ」に掲載されています。