間崎家は幡多中村の江ノ村にありましたが、邸跡は他人の手に渡り現在はもうありません。
また、江ノ村の間崎家の墓所には、父母以外の先祖と孫以下の墓があります。
2003年3月
寺田寅彦の墓に入る通りよりひとつ東の通りを北に進むと住宅街の奥にこのような階段がありました。
これを見ると里山を浸食して削り、住宅が造られたことがわかります。
こんな開発を許可するから、大雨で山が崩れると山があるから悪いといわれるようになるんですね。
登っていると細長い標柱があり、右に行くように書かれていました。
山塊の東端で、住宅が迫った崖っぷちに墓所がありました。
これが間崎哲馬則弘の墓です。
間崎家は代々幡多郡の庄屋だったのですが、父は高知に
出て現在のはりまや町に住んでいました。 哲馬ははりまや町
で生まれ、少時から高知の三大奇才といわれるほど学問が
できたようです。江の口川畔で塾を開いたこともありました。
藩に取り立てられたのですが、令旨事件で切腹させられます。
山内容堂の怒りに触れ、平井収二郎、弘瀬健太らと共に切腹した折りに、
「守(も)る人のあるかなきかはしら菊の置き忘れにし撫子の花」と詠い、
行く末を案じた遺児「雪」の墓です。従兄弟と結婚し、霞を生んでいます。
哲馬の父則忠と母の墓がありました。 母は田尾家から嫁いでいて
父は城下で医者をしていたので、郷里の中村には墓を作らず、哲馬と
共にここ田尾家の墓所に墓を作ったようです。
秦泉寺の町並みを見下ろす田尾家の墓所です。
哲馬たち以外は田尾姓の墓が並んでいました。
間崎滄浪の墓は山本泰三著「土佐の墓」に掲載されています。
間崎哲馬の墓は前田秀徳著「龍馬からのメッセージ」に掲載されています。