土佐の歴史散歩高知市南部>長宗我部元親の墓

長宗我部元親の墓


2000年9月23日 元親の墓を訪ねました。

桂浜に通じる旧道の南側に矢印を書いた緑の立て札があります。

立て札の道路反対側(北側)に自動車一台がやっと通れるぐらいの路地があり、ここから北に約150mという看板があります。


道路に面している案内板です。


高知市方面から見やすいのはこの面です。


細い通路を入って行くと「長宗我部元親の墓」と彫られた石柱が立っています。


奥には石の階段が見えます。その左方に丸い石碑が見えます。(2005.04.23)


「兵士の塚」と書かれています。


上の「兵士の塚」の説明板です。
慶長5(1600)年12月の浦戸一揆で戦死した長宗我部氏の家臣を祀ったものと伝えられる。

一領具足を祀る六体地蔵(石丸神社)は別にあります。


石段を上がっていくと再び説明板があります。

「戦国武将 父は国親。初陣は永禄3(1560)年
22歳の時長浜での本山氏との戦いであった。
以後15年間に本山、安芸、一条の群雄を滅ぼし
土佐を統一。続いて10年を経て四国を併せたが、
豊臣秀吉に降って土佐を保つ。
翌天正14(1586)年豊後戸次川に大敗後は領国
支配の刷新を図り、検地、城下町建設、掟書き
制定に当たり、政治家としての面目を発揮したが、
慶長4(1599)年伏見に病死、この地に葬られた。」


石の柵に囲まれた真ん中に塔のような墓がありました。
この玉垣は後世の物で「元親公十一世後裔」、「徳山市藤村忠巳建」と彫ってありました。


長宗我部元親 慶長4(1599)年5月19日没享年61

四国統一を間近まで成したというのに、思ったより小さい元親の宝篋印塔です。
ここは説明板も完備していて、また、地域の顕彰会もしっかり整備していてよかったです。


墓所の奥数メートルには三谷家祖先の墓という碑があり、気になったので見てみました。
「長宗我部元親公ニ仕へ二番家老ニテ一千五百石知行ヲ賜フ」「二十五代ノ孫三谷盛一建之昭和十年六月」

なお、長宗我部元親の長男、信親の墓は近くの雪蹊寺にあります。

長宗我部元親の墓は山本泰三著「土佐の墓」に掲載されています。
長宗我部元親の墓は前田秀徳著「龍馬からのメッセージ」に掲載されています。

土佐の歴史散歩高知市南部>長宗我部元親の墓