ずいぶん前から瀬戸の街道で案内板は見たことがあり、行かなくちゃと思っていましたが、なかなか機会がありませんでした。
今回(2003.04.19)は瀬戸ショッピングセンターから行ったのですが、道に迷って団地内をぐるぐるまわりました。しかし、たどりついてみると、なんだこんな簡単なところかという場所でした。
がっかり名所と言われた「はりまや橋」ですが、それでも今までたくさんの観光客に見てもらっているのです。
それを作った人はきっときれいなところに大事にされて眠っていると思ったのに、なんだろうこのありさまは!
がっかり名所といわれるのは、構造物の橋だけが独り歩きして、その経緯・背景が抜け落ちているからだろうと思います。
2003年4月19日
大きな目標は横浜小学校です。この小学校の周回道路の西側にありました。
看板はあるのですが、どこ?って感じです。
小さな丘を越えると何か大きい石碑が住宅に向かってぽつんと立っていました。
「播磨屋宗徳記念碑」 これが記念碑でした。
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豪商播洲飾の産 もと高嶋与十郎 九郎左衛門ともいう長宗我部元親の讃岐 出兵に糧米軍用銀を調達のち招かれて浦戸城下に来住 山内入国後 高知城 下に住み特権的お目見得商人として大年寄をつとめる 慶安元年九月没 昭和五十四年十月吉日 高知市 中平秀樹建之 「土 佐 の あ き ん ど 宗 徳 さ ん が い ま に 残 し た 朱 ぬ り 橋」 |
写真の撮り方が下手でした。初期のデジカメの液晶はとても小さいので、「橋」という字がはみ出しているのに気がつきませんでした。
高嶋家、播磨屋家の墓石の頭だけが並べられている。
このあたりの土地は谷時中の土地だったが、息子の遊学の資金にするため、播磨屋宗徳に買ってもらったという。
それがいつの間にか、おそらく宅地開発の邪魔になったので、移動させられたのだろう。
せっかくこれだけ広い場所を確保しているのだから、素人にもどれが宗徳さんかわかるようにしてほしいものだが。
あとで山本泰三著「土佐の墓」を見たら、項目は播磨屋宗徳妻となっていて、どうやら山本さんにも宗徳の墓は確認できなかったようだ。
このような状態では「はりまや橋」は観光の売りに出すけど、作った人や墓はお構いなしという、いかにも高知県人らしいこと。
これを建てた中平秀樹さんってえらいなあ。この碑がなければほとんど目立たないし、夏なんか墓石も草で覆われてただの野っ原になるのでは。
こんな小さな碑もありました。
ここに櫃屋道清の名が記されています。
播磨屋宗徳妻の墓は山本泰三著「土佐の墓」に掲載されています。