信能---兼能---兼綱---能重---元親---文兼--+--元門 +--女(本山氏) +--女(一条氏) | | | +--雄親--+--元秀-------+--国親----+--元親-------------+--信親 | (兼序) | (覚世)| | +--女 | +--親貞--親実 +--親和 | (山田氏) | | | (香川五郎次郎) +--女 | +--親泰--親氏 +--親忠 (吉田氏) | | | (津野孫次郎) | +--親益 +--盛親 | | (右衛門太郎) | +--女 | | (吉良氏) +--国康----+--親武--親清 +--女 | (佐竹氏) +--親興 (比江山掃部介)
この図は「高知県の歴史」新版(中世担当:市村高男)に従っていますが、山本大著の旧版ではもう少し詳しく書かれています。
「土佐物語」は宝永5(1708)年に完成された軍記物であるので史実でないことも書かれており、史料としては扱えないと言われますが、参考にはなると思い読んでみました。長宗我部氏の先祖は秦の始皇帝四世の孫功満王、真徳王親子が相次ぎ日本に渡ってきて、仁徳天皇から波多という姓を賜ったというように書かれていました。
また、秦能俊が長岡郡宗我部村岡豊山に城を築き、姓を宗我部と改めたが、香美郡にも宗我部氏がいたので、その後は長岡郡の方を長宗我部、香美郡の方を香宗我部とした、ということももっともらしく記述されていました。なお、能俊から10代目に上の系図の一番目の信能がいます。
能俊−俊宗−忠俊−重氏−氏幸−満幸−兼光−重俊−重高−重家−信能−兼能−兼綱−能重−元親−文兼−雄親−兼序まで18代が長らく岡豊城において暮らしていたというわけでしょうか。
約50年間も岡山県の林原美術館で美術品として眠っていた「石谷古文書」が、歴史専門家の間で精査された上で「石谷家文書」として平成25年全国に発表されました。
永らく軍記物に頼る事が続きましたが、これにより、客観的に斉藤氏、石谷氏、長宗我部氏の密接な関係、信長との関係などがよくわかり、国立公文書館所蔵の蜷川家文書でもいわれていた元親の妻は石谷氏から娶ったことが確認されました。