2013年1月3日 「土佐の墓」を持って出かけました。
ここは旭東小学校の南側です。校舎と体育館の間から北側の小さな丘が見えます。
この小さな丘に田岡嶺雲の墓所がありました。
小学校の北側に回ると、細い坂道がありました。
どんどん上にあがると道は細く、木も茂ってきました。
頂上部に着くといきなり大きな墓石が迎えてくれました。右の墓石は田岡鶴岡の墓とあり、
よくあるだれそれ妻の墓にはなっていません。白っぽい花崗岩のような
石材なので、彫ってある字がたいへん読みにくいのです。あとで調べると嶺雲の伯母です。
嶺雲の墓石に刻まれていたのは「先考諱ハ佐代治田岡亨一展臣ノ三男明治三年十月十八日
土佐郡旭村赤石ニ生ル二十七年東京帝国大学文科ヲ卒業シ始メ爛腸ト号シ後嶺雲ト改メ
文名一世ニ轟ク慨世憂国ノ志多病遂ニ果タサズ大正元年九月七日四十三歳ヲ以テ日光ニ
客死ス骨ヲ分ツテ一ヲ大谷河畔ノ浄光寺ニ埋ム 大正十五年七月七日 一子田岡良一識」
田岡嶺雲は病弱でしたが、高知共立学校に学び自由民権運動の影響を受けました。
東京帝国大学文科を卒業、投書雑誌「青年文」の主筆となったが文筆だけでは
生活できず、中学校教師、新聞記者、主筆、外地日本語教師、従軍記者等を
遍歴しましたが、脊髄の病気になり湯日光、河原などで静養しました。
世界主義的評論家であり、中国文学研究者でもありました。
1911年6月から中央公論に自叙伝「数奇伝」を書いたのが最後の著作となりました。
父母の田岡亨一展臣夫婦の墓です。これも立派な墓石です。
長男の田岡展章は実業家、その妻は社会福祉事業家でした。
次男の久寿弥太は叔父の木村漸の養子となり、東京帝国大学法学部政治科を卒業し、
三菱に入り支店長、部長を経て取締役、総理事となり、三菱財閥の中枢でした。
高知市旭町の木村会館は久寿弥太の邸宅を高知市に寄贈したものです。
久寿弥太の墓は多磨霊園にあります。
高知市旭町の児童公園には2人の碑が建っています。
木村会館は少し場所が違うと思うのですが。
田岡嶺雲の墓は「土佐の墓」山本泰三著に掲載されています。