2011年2月22日 撮影に訪れました。
一、二度は通っている場所ですが、気付かずに通り過ぎていました。
祖先と見られる墓は崩壊していたし、望月清平とされる墓は台石のみで墓石はありません。
「望月亀彌太義澄」の墓です。横には「元治甲子六月六日」と彫られています。
亀彌太は、五十人組で江戸に行き、その後、藩命で神戸海軍塾に入り航海術を学びました。
途中、海軍塾を抜け出し池田屋事件で新撰組と斬り合いになり討死しました。
京都三縁寺に北添佶磨と一緒の墓があるそうです。
「行く秋によしおくるとも紅の ちりてぞ匂へ木々の紅葉葉」
元治元年(1864)6月6日27歳でした。
望月亀彌太の墓は山本泰三著「土佐の墓」に掲載されています。
望月亀彌太邸跡、墓は前田秀徳著「龍馬からのメッセージ」に掲載されています。