2002.9.21 安芸方面を探訪しました。(2005.12.17再訪問)
安芸城は土佐の七豪族の一人に数えられる安芸氏により鎌倉時代の延慶元(1308)年に建てられました。
安芸氏は戦国時代の末に長宗我部氏に滅ぼされました。
さらに徳川時代になると長宗我部氏に代わって土佐藩に封ぜられた山内一豊の家臣、五藤氏の居城となりました。
(2005.12.17)
安芸川の畔の小山が安芸城跡です。
(2005.12.17)
本丸跡には何もありません。
(2005.12.17)
南側にわずかに残る土塁に上がると安芸の平野の向こうに土佐湾がはるかに見渡せます。
(2005.12.17)
「毒井戸跡」書道美術館の前にあります。
永禄12(1569)年8月、長宗我部元親軍に包囲され、安芸国虎が籠城していた安芸城は対岸から放たれた火矢により焼かれました。その時場内にいた料理番が混乱に乗じこの井戸に毒を投じ、長宗我部側に走ったといいます。このためこの水を飲んだ大勢の兵士が死に、安芸氏の敗戦が早まったようです。安芸国虎はついに観念して城を出、西方にある浄貞寺に入り家臣の有沢を伴い自刃しました。
一部残る堀が昔の安芸城の姿を想像させます。
「古い時代から受け継いできた歴史の跡をいつまでも私たちは守っていきたいと念願します。」
という碑が門の位置に立っていたのが印象的でした。
その後元親の弟親泰が入城し長宗我部氏の支配は約30年続きましたが、関ヶ原の戦いで終局を迎えます。徳川家康から関ヶ原の合戦の褒美として山内一豊には土佐藩があてがわれました。このとき家来の五藤為重は特に一豊から安芸の代官に任命され、この安芸城に居を構えました。
これは以前に越前朝倉の合戦において一豊が敵の矢を受け、左のこめかみから右の奥歯までささった矢を五藤為重の兄為浄が抜いて命を助けたことによるということで、その矢じりが家宝として五藤家には伝わっています。(為浄は関ヶ原の合戦で戦死し、弟の為重が家督を継ぎました。)
<安芸市立歴史民俗資料館>玄関のプレート
五藤家家臣が住んでいた安芸城土居趾には、この「安芸市立歴史民俗資料館」などがあります。
同じ安芸城土居址にある「書道美術館」です。
常設展には安芸代官から山内家家老となった五藤家の歴史が展示してあります。
高知城下には現在も門が残る、帯屋町から電車通りまでの広い家老屋敷がありました。
写真手前はその模型です。
その他、童謡作家弘田龍太郎らの資料、遺品等も展示されています。
五藤家の家宝である、山内一豊の頬にささった鏃(矢じり)も展示されています。
五藤家の先祖の霊を祀っていると思われます。(2005.12.17)