土佐の歴史散歩田野町と周辺>二十三士の墓

二十三士の墓(福田寺)


二十三士と武市瑞山 (田野町教育委員会の建てた説明板より)

 江戸で薩長の志士と手を携え、「尊王攘夷」の運動に立ち上がる約束をして土佐へ帰ってきた武市瑞山(半平太)は、藩内の同志「土佐勤王党」を結成し、「公武合体」の藩論を「尊攘」に転換さすべく建議し成功するかに見えた矢先、文久三年(1863年)八月の政変で水泡に帰し、前の藩主山内容堂の頑固な公武合体論と藩の上層部と長宗我部の遺臣即ち上士と下士の対立感情も底流に働いて、次々に弾圧の嵐が吹き、瑞山も獄中に在り、一藩勤王の目的は挫折した。
 土佐藩内七郡相呼応する結束も次第に崩れ、清岡道之助を首領と仰ぐ安芸郡下の二十三士だけとなり、岩佐の関所から藩庁へ「藩政改革・攘夷・瑞山の釈放」の嘆願書を差し出したが、藩より反乱を企てる不逞の徒として討伐の兵を送られ、志士は阿波で捕らわれて岡地の獄舎で一夜を明かし、唯一度の取り調べもなく元治元年(1864年)9月5日、奈半利碩を朱に染め節義に殉じた。

2002年3月9日 田野町を訪れました。


福田寺門前
国道側は裏口(墓地)で、南側が正門


 福田寺境内
 顕彰碑や武市半平太のミニ銅像が立っている


顕彰碑説明
二十三士が処刑されて三年後、明治維新の大業が成った。
明治十年、遺族に族禄が復活され、明治二十四年特旨を
もって贈位の沙汰があった。
明治三十年かつての同士で、当時の高知県知事であった
石田英吉の発議により、この碑が建てられた。


二十三士の死骸は、清岡道之助の遺言によって福田寺
境内に埋葬された。明治24年贈位を受けた際、道之助の
妻静によって修築された。その後大正2年、静は私財を投
じて、現在の墓碑をたて、再改築し、現在に至っている。

若い命が奈半利川原に散った

右から清岡治之助(39)、清岡道之助(32)、寺尾権平(24)


右から柏原禎吉(27)、柏原省三(30)、木下嘉久次(21)、木下慎之助(16)


右から近藤次郎太郎(25)、、田中収吉(32)、吉本培助(21)、安岡哲馬(18)


右から川島総次(41)、檜垣繁太郎(16)、千屋熊太郎(21)、宮田頼吉(31)


右から横山英吉(24)、宮地孫市(19)、小川官次(21)、岡松恵之助(30)


右から新井竹次郎(26)、宮田節斉(29)、豊永斧馬(27)、須賀恒二(30)

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