土佐の歴史散歩高知市北部>井上好春の墓

井上好春の墓


2013年3月28日(木) 暫く前に知人に井上好春のお墓を知らないかと尋ねられましたが、
私は知らなかったので、用事を済ませて夕方訪れました。
場所は谷干城墓所の西方下と「土佐の墓」は書いていました。
その通りでしたが、見るも無惨な状態でした。


墓石はあちこちに向いて倒れ、墓碑銘を読むのも困難でした。
以前に聞いた話では、墓地を手に入れたい墓地屋が、長く墓詣りをしてなさそうな墓地をこうして
荒らしておくのだそうです。その後変化がなければ管理者不在とみて更地にした上で墓地として
売るのだそうです。


丸い墓石が井上好春、寄り添っているのが妻、後に寝ているのが井上小平太。


「井上真蔵好春 二月十八日」としかありません。
「土佐の墓」によると、「墓石に二月十八日としたのは亡父の忌日という。
天保六乙未年(1835)十二月十三日八十歳で歿したが祭日は遺言により
二月十八日とする。」と書かれています。


好春の墓石の背中には「地獄異な極楽もいな桜咲 本のみ国へ二世も三世も」が刻まれています。
「土佐の墓」によると、「谷真潮、宮地春樹に学び、特に和歌にすぐれた。当時の新しい歌に詳しく、
土佐の歌合判者の開基といわれる。古風で誠実の人であった。」と書かれています。
龍馬の生母、幸の母は久です。久は井上好春の長女です。つまりこの人は龍馬の曾祖父です。
また、龍馬の姉、千鶴が嫁いだ高松順蔵の母は井上好春の二女、千代です。
井上好春の三女は、鎌田家に嫁いだそうです。


妻は岡崎氏女 寛政十三年(1801) 四十四歳で歿。


井上佐源太(好春長男)か?すっかり埋まっている。
井上佐源太 天保十四年(1843) 十二月二十七日


井上佐源太娘墓 半分埋まっていて起こせなかった。


井上喜源太重政 安永八年 七十六歳で歿。


井上喜源太墓とあるが、不明。


墓地のすぐ下には台石が放り出されていました。

縁者はいないのだろうか、このままだと大切な歴史の証拠が失われてしまいます。

井上好春の墓は山本泰三著「土佐の墓」に掲載されています。

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