土佐の歴史散歩高知市東部>田邊島神社

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田邊島神社(隼人神社)


2007年3月21日 田邊島に来ました。

高知市大津の国分川南岸に小山があります。食品団地から堤防に出て、少し西に進みます。

大津地区はもともと低地帯で、「土佐日記」にもあるように、千年の昔は海であり、田邊島は文字通り海に浮かぶ島だったそうです。

大濱(坂本)家の三代目が才谷村から出てきて商売を始め住んだのもこのあたりだそうです。


小山の南側に出ると畑地があり、その中に参道があります。


鳥居と手水舎、そして小山に上がる石段が続きます。

 
全てが小さい。狛犬も小さいサイズでかわいいです。


小さな手水舎です。二本の細い柱で屋根を支えています。


田邊島神社(隼人神社)の社殿です。
石段の登り口には、高知市が建てたりっぱな説明板がありま
した。それによると、

「隼人神社の祭神は、長宗我部氏の重臣で武勇の誉れ高い福留氏11代の飛騨守親政と12代隼人佐儀重である。「福留の荒切り」で勇名をあげた飛騨守は、天正5年(1577)元親に従って伊予へ出陣した折り戦死した。67歳。また「酒樽を砕いて元親を諫めた」隼人は、天正14年豊臣秀吉の命を受けた元親、信親に従って豊後の国に出陣し、戸次川で島津の大軍と戦って討ち死にした。38歳。
太平洋戦争中、村人は隼人神社によくお参りして、出征兵士の無事を祈ったという。」


社殿脇には、おそらくは近隣の開発で追い出されたであろう
小さな祠がありました。


すぐ隣の墓所には中澤家の墓がたくさんありました。


その中でも目立っているのが中澤楠彌太之墓です。
同じ説明板によると、

「万延2年(1861)1月18日、田邊島の郷士中澤家の長男に生まれる。
明治14年自由民権運動に参加。その後板垣退助の知遇を受ける。
同24年県会議員に当選。その後土佐紙業組合頭取をはじめ、
高知銀行頭取などを兼ね、県実業界の発展に尽力する。
同38年衆議院議員に当選。国道高知徳島線の開通、平山発電所の
建設、土佐電気鉄道の敷設、電話局の開局などに尽くした。同39年
11月7日、紙業に関する要務で上京中、急性化膿中耳炎のため46歳
で急逝した。」


隼人神社前の畑地のはずれに丸い自然石の碑がありました。

「災害紀念 山崎太郎君」(「さき」は立つ崎)

「山崎太郎は田邊島の人。大正3年から昭和4年までの約20年間、大津村の助役あるいは村長として村行政に尽力した。とりわけ大正14年9月17日の大水害では、死者2人のほか、今土居・水張・長場江の各堤防が決壊、舟入川に架かる橋も流されるという惨事となった。
当時の村長山崎は災害復旧のために上京し、浜口雄幸大蔵大臣に陳情して国庫から無利息の融資を受けるなど、献身的に努力した。
また国鉄大津駅の設置についても、中央に顔の利く山地悦弥の協力を得て、開駅に成功した。」

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